天皇すり替え説の誤解と、大室家が後醍醐天皇の子孫であるという件……

何事も、是々非々………



『誰も語れなかった驚愕の日本史』さんのブログ記事

田布施システム論」のデタラメを徹底検証する!


天皇すり替え論の真相と、大室寅之祐の出自について、
一部、引用させていただきます。

……関係ない話なんですが、落合莞爾さんの本には、
『海部氏系図』の国宝指定がオカシイという事が書いてあった。
この系図を、国宝指定にするよう動いたのは、故上田正昭さん。
麗美術館の館長。
系図国宝指定の裏側には
《國體黄金ファンドの管理・運用権の問題が潜んでいる》
のだそうですよ。!(◎_◎;)

****************************************************************引用始め


>とくに"表の天皇(政体天皇)”は、幕末の孝明天皇に至るまでほぼ北朝系(持明院統)によって占められ、南朝系(大覚寺統)は"裏の天皇(國體天皇"とされてきました。このため、国学者や水戸学派、吉田松陰らも疑問を持ち、南朝皇統の表舞台への復帰が主張されます(南朝正統論)。
 
>もう一つの皇室、皇統のありかたに関する問題は、国際化に伴う欧州王室連合との王族間通婚への対応です。通婚により、皇統に外国王室の血脈が入ると、白山王朝以来三万年以上続く世界で最も古い皇統と國體が毀損する虞れがありました。
 
>そこで、皇統の万世一系性(血脈又は霊脈としての)と國體(国家としての霊脈)を維持するため二つの皇統を正式に定め、政体(東京)皇統ではなく、國體(京都)皇統をもって王族間通婚に対応することを決めます。
 
>具体的には、幕末の"天皇"伏見宮・邦家親王が、子の山階宮・晃親王、中川宮・朝彦親王岩倉具視らと謀って孝明天皇崩御を演出、その子・睦仁親王とともに堀川通りにある本圀寺内の堀川御所に隠棲し、以降はシャーマンとして國體の安寧を祈りながら外交、金融等を担当する”裏天皇”になり、一方では長州・大室寅之祐明治天皇として即位、政府と軍を統帥する"表天皇”となり、南北両統が迭立して「東京皇統」と「京都皇統」が併存する正式な「皇統二元体制」を敷くことを決めます。

(中略)

>2、長州・大室寅之祐護良親王の末裔
 
>さて、明治天皇となった大室寅之祐の出自ですが、月読歴(真の皇統譜)よると後醍醐天皇の第一子・護良親王の子・興良(おきなが)親王の後裔である「大室家」というのが山口県熊毛郡田布施村にあって長門国・国主だった大内氏、さらに毛利氏の各時代を 領主が天下を取った時の”南朝系隠し種”として匿われてきました。

>一方、同じ田布施にある南朝鷹司家が代々住職を努める円光寺住職の娘スエが幕末に生まれ、隣家の地家作蔵に嫁ぎ寅之祐が生誕。その後、スエは離縁し大室家に嫁ぎ、子息を正式に「大室寅之祐」とします。
 
>ところで、時代は前後しますが、室町時代日明貿易で財を成した大内氏百済系?)に明国や高麗の背景のもと、分離独立を画策する動きが噂されます。これを牽制するため、南朝皇統は護良親王の末裔・興良親王を、また足利幕府も、"西行法師"こと佐藤義清の後裔・佐藤甚兵衛(後の佐藤栄作岸信介に繋がる)を、秦・藤原体制に不満を持って諸国に散らばった南朝海人系物部氏の隠れ里「田布施」に派遣、大内氏の野望画策を監視します。

>⑬大室寅之祐護良親王の後裔である話は吉田松陰も記録しており、松蔭が天皇としての英才教育をしていたとしています。また梨本宮守正の娘で李王朝に嫁いだ李方子も「明治帝は南朝の人」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の甥・興光も「北朝の睦仁親王と明治帝は別人だ」と証言しています。





****************************************************引用終わり
 
安倍ちゃんの先祖は、西行でしたとさ。!(◎_◎;)
田布施の歴史も学ぼう。
というか、出自なんぞカンケーネー☆
安倍ちゃん、早く辞めてね。👊☆



さて。
政体天皇大室寅之祐の家より、Annさんの母方大伴氏の方が、家柄は古い。
藤原氏の方が、政略婚に熱心で、天皇家とどんどん繋がり、
勢力が伸びていった。
大伴氏は、そういうやり方をしない家風だったようで、負けた……と。
今も、続いているのか、勢力争いとかが?
まさかねえ。