「創造的人間」を読みはじめてみましたが&おでんの話

ほんとうにブログは久しぶりですが。

「創造的人間」筑摩書房1966年初版 湯川秀樹


最近、ばたばたしていて、本を読んでいない。
以前から読みたかったこの本を、おでんをグツグツ煮込みながら、
ナナメに読んでいた。

いっぱい気に入った文章があちこちにちりばめられているよおお。
生きててよかった。(TーT)
(とこの時は思ったものだ.
(ー.ー)=3

おでんは、今日食べるものがないので、24時間スーパーで昨夜買った
?瀬戸盛?という名前の具材と、ゆで卵を入れて、醤油と削りかつお
キムチを煮込んだ、超ありあわせお急ぎ創作料理(?)である。

醤油のかげんさえ間違わなければ、たぶん美味しいはずである。

瀬戸盛ってなんだろ、エビやイカの入った練り物の詰め合わせなので、
豪華に見えそうなんで気に入って購入したけど、量が少ないなあと
気づいたのは、煮込んでからだった。

あ、道草を食ってしまった。(^^;ゞ


>「学問がほんとうに進歩するためには
>何人かが独創的な新しい思想をとなえる、
>新しい物事を発見する、新しい機械を発明する、
>そういうことが必要なのはもちろんである。
>科学者にとって、もっとも重要で貴重な素質が
>独創性であることは、私が改めて申すまでもない。
>しかし独創力とは何であるか、
>そういうものはどこから生まれてくるものであるかと
>反問すると、
>その答えは決して容易ではない」p,88

「模倣は独創の先駆者である、もしくは先駆者にすぎない」p.88
高峰譲吉氏の言葉。誰か知らないけど、自然学の教師らしい。
この言葉を、経験から味わってみた。
んで、思うに、いまだ自分の独創的なものを
生み出しているかどうか確信がない。

独創的なノーベル物理学賞受賞者(1949年)の湯川さんは、
そういうことを考えろと言いたいのではないけれど。
置いてかれるのも悔しいので、先を読んでみようっと。(^^)

学ぶということが、最初は模倣であり、真似であり、
子どもが大人になるとは、自分より年上のもののすることを真似しながら、
だんだん一人前になるということなのだ。
自分より以前に学んだ人々が知っていることを教えられ、理解し、
記憶するということが大部分である。
科学が進歩すればするほど、修得すべき知識や技術が
ますます増えてゆく。

>「学問が進歩すればするほど、模倣しなければならない事柄の量が増えてくるのだ」

日本人は比較的短い年月で欧米文化を模倣した。
ということは、日本人は模倣の能力に恵まれていたということだ、
これは日本人の短所といわれている模倣が、
一概に短所とはいえないぞ、と湯川さんは言っているんである。

>「人真似が上手だということは、見方をかえれば、
>自分に欠けているものをとりいれる能力、
>自分と違った考え方を理解する能力がすぐれている、
>違った環境にたいする適応性がある
>ということをも意味しているのである」p.88

フ-ン


「模倣するということは、いいかえると己を空しくして外のものを素直に取入れることである。こういう意味で日本人は、よくいえば非常に素直であったのである。これを裏返していうと、無批判であったというそしりを受けることも免れなかった」P.90


うんうん。

それでも、成長の中で、考えるよりも、ただおぼえるということが
必要な時期があることは確かだと湯川さんは言う。
そのあとは、湯川さんの子ども時代、他の子どもたちと違う教育を
模倣の中からされていたことが、後々よい結果になったのだという
ようにとれる内容が語られる。

漢籍論語孟子、その他中国の古典。
それらを祖父が読むのについて読んでいたというのだ。
意味はわからないけれど、後に漢字を覚えるのに苦労がなかったとか。

これがオチ?
ではなくて、読み進むととてもおもしろいです。
でも、どうまとめればいいかわからぬ。
湯川さんのようなノーベル賞をとるような人間の育て方を
書いた本なのです。

最近、素直になれないから、実は、この本も読み出す時、
批判的に読みはじめてしまった。
ここまで読んで、飽きてきた自分がいるのにも困ってしまう。
でも、ナナメ読みすると、とってもおもしろいんですよ、
と言いたくなるのは何故だろう?

今日は、自分を白紙にして、本と向き合うことを教えられたような気がした。
今日はこの本をじっくり読んでみますのだ。

(もちろん100円本ですが)

新年あけましておめでとうございますです。
本年もどうぞよろしゅうに m(_ _)m