福田和也氏について 童顔で恋愛論を書く評論家

十年近く思ってきたことを含めて書いてみたい。

評論家、福田和也さんは童顔である。
彼の「恋愛論」を読むうちに、読むのがつらくなってくるときがあった。
本来、文章と外見は関連がないはずだ。
彼は個性とおもしろさ(センス)と頭脳のキレで女性にもててると思う。
女性は頭のいい人が好きだ。

だが、彼の恋愛論を読む以前に、つい先入観をいつも持ってしまうのだ。
たしか、島田雅彦さんと親しかったように思う。(今は知らない)
(スマップの香取慎吾に似ている作家だ)
福田さんは、彼の男前ぶりに感嘆の眼差しと憧れを持っているようだった。
嫉妬でなく、素直に美を受け入れる姿勢はとても共感できる。

イケ面と友達だと普通引き立て役で、嫉妬を感じるのが男性の本音では
ないのかなと思っていたが、モノカキは多少ホモッ気やレズッ気を内包
している人が多いように思うので、そこは気にならなかった。
福田さんが同性愛者だと言ってるのではない。

結構キレイな女の子が、「栗山千秋みたいだったらなあ」
「彼女すてきだよねえ」と溜息をつきながら言っているのを聞いたことがある。
「自分もああだったら、人生が今とまったくちがってくるんだろうなあ」
「顔が小さいよねえ。ああ、この顔なんとかならないかなあ」
彼女は自分の美しさに満足していないようだった。
「60になればみんな同じだと思うよ」と言うと、
「うん。わかってるんだけどね」
少し前の時代だと、
藤原紀香みたいな足だったら」
吉川ひなのちゃんみたいだったら」
細川ふみえのような胸だったら」
ずいぶんいろんな「~だったら」に遭遇した。
彼女らはみんな若さだけでなく、美しさも持っていたのに、より美しいものに
憧れを抱いていた。
最近噂で、みんなメタボってると聞くことが多いけど、
それなりに幸福になっているとのことです。

美を賛美することと、美を羨ましく憧れて、手に入れたいとまで
願う気持ちはちがうように思う。
それとまた別な観点で、作家は美に憧れ、執着するように思うし。
「手に入れたい」という願望とは微妙にちがうように思う。
たとえば、そこから、モノカキは妄想を発展させてゆくのでは
ないだろうかと思っている。

やがて、モノカキの「彼(彼女)」の憧れと執着は「俺(私)自身」
の内部に着地する。そして妄想活動が始まる。
小説家はそこが原点であると思う。
そして、妄想が強ければ強いほど、充実した作品をものにできるのではないだろうか。
もちろん妄想だけではダメだ。
すでに創作上の基本能力と自分の創作経過を客観視できる視点を
持っていなければ、芸術の域に高められることはないように思う。
ここで思うのは主に小説のことだけど。
だが、評論やエッセイでは、そういう「妄想」は小説ほど
処理しきれないのではないかと常々思っていた。

主観だが、福田さんはどういう家庭環境かは忘れたが、
音楽との出会いにせよ、それ以外の出会いにせよ、過去のあらゆる
出会いが、自分の充実した現在の環境につながっていることを、
とても感謝していた。

当然、世界中の誰にだって、オンリーワンの人生がある。
彼らは書かないだけで、彼らが自分について書き出せば、
福田さんに負けない、興味深い人生を生きてきた人はきっといて、
彼らの人生論、恋愛論は個性的でおもしろいものもあるにちがいないのだ。
ブログは、そういう意味で、未知の体験、興味深い世界観と出会える
可能性を持っている。

昔の福田さんのエッセイや講演で感じた
「俺って特別恵まれてるんだよね」
ふうの思い込みはなんなんだろうと苦笑したことがあった。
しかも、あの童顔(笑)で恋愛エッセイなんて、20年はやいわ!!
と思ったこともあった。(私も若かったんだなあと思う)

当時の私に言わせれば、彼は、さりげなくプチ特権階級的視座から
自己流解釈を披露しているように思えてならなかったのだ。
プチ「歴史を繰り返している」ように思えたのだ。

階級社会はできるだけ解体されるべきではないだろうか、
というような認識を、歴史から人間は学習したはずではないのか、
とは今も思っている。
それにかわるよりよい発想、思想がろくにないのかどうか、
そういったことの見積もりさえ人間たちは未だ経過中のように、
無知なりに思っていた私だった。
さまざまなことが長く停滞しているそのような時期に、
現状維持的に思えるような、特権階級(ここでは知識人かな)の優越を
小市民的にプチ自慢的内容を、福田さんは恋愛論のなかで書いているように感じられたのだ

もっと単純に言えば、童顔で「恋愛論」を書くのはいいが、
内容にリアリティがないのは何故なのか、と思ったのだ。
(私だけが感じている思いなのか?と)

昔感じたことですが。

今は時代もちがってきている。
知識人の片寄ったものの見方に失望さえしなくなった。
人間として見えてくるものは、言葉にできない部分で感じることなのだ。