哲学は男のもの? 『ウィミンズ・リーズン』をめぐるあれこれ

もう20年以上前に書かれた三枝和子さんのエッセイのコピーが出てきた。
本好きな人が、本棚の多くの本の背表紙を眺め、その日の気分で一冊
手にとり、パラパラめくって気に入ったページを読みふける…、
ひどく充足した気分が想像できるよネ。
それと似ていないこともない気分で、このホチキスでとじたコピーを
さっき入浴中読んでいたです。


1985年のどの本からだろうか。「199×年6/2図書館でコピー」と、
メモがある。(×部分は読みとれない)

「女の思考方法と区別性」というタイトル。
「いかにして女性の哲学はは可能か」の第2講である。

最初ウィミンズ・リーズンという言葉について、エピソードをまじえて説明してる。
ウィミンズ・リーズンという言葉は、現在は生きているのだろうか。
当時も死語になりかけていたらしいから。
当時の頭のいい女性ならば、知っていた言葉だろうけど、私は知らない。
というより、自分の生活圏に使用しない言葉だからなー。
オバカでごめんちゃい~v(^O^)v

さて、問題の中味ですが、まあ聞いてくださいよ~。
著者の友人のカトリック信者が通っている教会で、若い女性が神父さんに恋して、
告解室で告白したが、断られ、その女性は「神父さんは私にひどいことをした」
と叫んで告解室を抜け出し、走リ抜けていった。
これが教会関係者にもれて、件の神父さんは更送を甘受したというのだ。

んで、以下はその続きの書き写しです。

これを十人ほどの研究会の席で披露されたところ、男性たちは一斉に「女はコワイ」と唸った。男女はほぼ半々、少し男性の多い集りだったが、女性たちはそれぞれに批判は持っていたが、「彼女の行動は理解できる」と言った。

「ふうん、『ウィミンズ・リーズン』だねえ」

男性陣は苦笑した。コワイ、と思った反面、恋に陥ると前後の見境いが無くなる女の行動に、一種の満足?のようなものを示した。

男性としては、この場合、女が愛している神父さんの迷惑、などと他者の思惑を考えて行動するような理性的な女では可愛いくないと思っているのだ。

コワイとカワイイは表裏の感情で、男性陣の満足はこうした女たちの理性の無さ、客観性の無さに対する優位の確認であった。

ここで動いていた男たちの意識には、理性、客観性、総じて論理というもの、哲学というものは男性のものであって、女性には本当の論理などはないという大前提があるのである。


ううう、いつの時代の話で?
三枝さんの主観ではないしな。(この読み取りは適切です)
17ー18世紀とかならともかく、20年前こうだったの?
しかも何かの学問研究の場所でしょ?

そりゃ今でも、時代錯誤のいばりんぼオヤジがセクハラして
平然としてる職場があるくらいだから、時代が変わっても、
男尊女卑に至る男性の体質は、基本、変わらないでしょうけれども。

アタシは論理的ではないけど、だからって、
女性全体がみんなそうだというわけでもない。
女性が論理的でなかったらどうだというんだ~!?
…とか、昔はいろいろ考えたこともあったっけ。(遠い目)

でも、老いてしまえば、男女の差はないと思っていたから、
普遍的なテーマをなにか学びたかったな。男女の差異を学ぶのでなく。
でも今は、差異を不可思議で興味深いものと見ているところがある。
あと、創作には、男女の差は関係ない。

それはそうと、
三枝さんの引用してるエピソードの中の神父さま、災難だったなあ。
何も悪いことしていないのに。
でも、この場合、若い女性は、とりあえず強引だけど、動機は純粋なんだよね。

最近あった、痴漢の濡れ衣着せられた男性の場合とくらべると、
痴漢された被害者になりすました若い女の背後に、金目当ての
首謀者の若い男がいたりして。彼は学生だった。
あまりに軽い。

ひどい事件だと思った。
男女差がどうのと言っているうちは平和ということかもしれない。