後悔、苦悩から自己の肯定に向かう話 人生相談@十年前 番外編

ようやく続きが書けるようになりました。
ラジオ人生相談@十年前その(4)です。
と言いたいんですが、番外編ということで。(^^;)

この相談と回答は、とても深い。
大原けいこさんは、本当に人間をよくわかっているなあと思う。
専門家って、頭だけの人が多い。
哲学でもそうだけど、日常に使えなくちゃ意味がないのだ。本来は。

悩んでるときは特に。


でも、少し元気になると、すぐに役に立たなくても、いずれ、あるいはすでに現場にいる人もいるでしょうけれども、
誰もが味わう、老い、病気・・・・・そして、死への不安。


こういうことを考えてみたくなる。
私は、それが大人になることの一つだと思っていたりする。

成長という意味ではなく、脱皮に近いかな。


階級的なもののニオイは、時に甘美ではあるけど、もういいやという感じ。

成長って、しないと下で、できれば上でしょ?
胡散臭すぎる(笑)

上も下もいらん。


今のような時代なら、
性善説で、礼儀正しく、自分を好きであれば、ありのままのアナタでべり~ないす!

「わたし」 は 「わたし」でしかない。


自分のために生きるべきか、
他人のために生きるべきか、
こんなの愚問だと思う。

自分のために生きられない人間が、他人のために生きられるわけがない。


また、


聖人とて人の子だと思うし。
人間は神にも菩薩にもなれるが、それは、永遠に続かない。

人は聖人になる時もあれば、愚民になる時もあるのだ。


天才を何人か知っている人が言っていた、最高に輝いた時期はどの人も短かった、と。

老いが劣化させるのでなく、
本人の傲慢さや、自惚れが、酒やドラッグに向かわせ、
廃人のようになったり、精神が高貴なものを失ってゆくのだということらしい。

優れた表現ができなくなってしまうのだ。


「歌は体だけではないんですよ」と、知人の歌を歌う人が、以前言っていた。
どういうことだろうと思ったが、心のことかなと、当時は感じた。

それを思い出した。

本当に繊細な作業だ。芸術というものは・・・。

それでも多くのカリスマたちは、芸を通して人格を磨き、美を我々に堪能させてくれる。

老いの輝きの再発見を、こうした美のカリスマ達たちが提案してくれる。

あたらしい価値の発明は、これからも多く必要だろうし、多く成されてゆくだろう。


人間であることの大肯定がいつもできてたらいいな~


それは、決して神や大自然に背を向けてはありえない、
ということは、他者もともにある自覚。
というか、

誰にだって同じ思いが存在してるんだと信じられる思いがあるんだよねえ。

自分が自分らしくありたいという、叫びにも似た、ほとばしる思いがそれ。


若い時、そういう思いから、生きるエネルギーをもらっていたように思うのだ。

「ともかく、とりあえず、今は生きてゆきたいの!」みたいな・・・。
それがワタシには幸福なことだったと思う。

思えば、遠くに来ちゃったもんだわね☆


さてさて。

この相談者も遠くに来てしまった人である。
もがいて、苦悩して、
「失敗した」「なんてことをしてしまったんだろう」と後悔した人だ。

知人で、離婚後、子どもを実家に預け、一人暮らしはじめたが、一ヶ月もたなかったと言っていた。
「子どもを捨てるなんてできない」と言いながら、それが原因で、好きな人は去っていった。

うーむ。難しい・・・


知人は、「子どもさえいなければ・・・」と言っていたことがあった。
一時の感情で言った言葉ではあるが、本音だったと思う・・。

大人の事情はいろいろなんである。



さて、まだ続くですよ。(^へ^;)

番外編でした^^

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同時に、人間という時間の縛りに支配された、意識を持った物質体なのだ。