ヒロシです・・・「ガラスの部屋」とか「ある愛の詩」とか 若者の幸福について

最近ふと思い出したものに、古い映画がある。
天井桟敷の人々」とか、
「小公女」とか「マイフェアレディ」とか、いろいろです。

いま観ると、当時の古い社会観念が
重奏低音のように流れているものもあって、
「う~む」と考え込んだりしてしまうものもあったりして、

時代の流れや、その意味をあらためて見直してしまうことがある。
時に首をかしげる映画もある。

ヒロシです・・・

うらぶれたホストの雰囲気で人気だったヒロシさんて芸人さんがいたけど、
後ろに流れるBGMは、どこかで聴いたことがあった。

昔のそのまた昔、深夜に観た映画である。
青春モノだった記憶がある。
青臭い若者の父親への反発と、
自立してゆくプロセスといいますか、
要は成長の物語だったような記憶がある。
邦題は「ガラスの部屋」だったような。

記憶だけなんで、確実ではないけど、
そうそう「ラブ・ストーリー」つまり「ある愛の詩」に筋が似てると感じた、
これも主観的記憶・・・

「卒業」も全体の雰囲気が、この流れだと感じる。
アメリカが父性や家族への幻想が大きな国であることを、
最近の映画でもちょくちょく感じるけれど、
昔はもっともっとそれがあって、
それ(幻想)が壊れてなくて、

もしかすると
そういう幻想が、アメリカの経済状態じたいを
支える助けをしていたのかもしれないのだよね。

そうしてやがて、映画界はネタを失い、
外国の作家の題材のリメイクや、
自国の古いコミックのヒーロー物なんかを
制作していくようになっていった・・・・
ような気がする。

アメリカ。

・・・・もはや、よくわからない状態になってきたけど、
この目で見えるうちに見たいものは、世界中にあり、
アメリカにもある。
歴史や文化への愛好は、時代の潮流とは、
時に無関係である。

反発。

権力があって、そこに権威がないと、
反発する意味もないように思えるよなあ・・・・。

お父さんて、もう亡くなって月日も経つのに
今も反発してるけど(苦笑)
愛情は一番私にあったよと身内間の噂。

愛が多かったら、幸福だといえるのか?
それが一番の疑問であるけど、
どうなんだろう・・・・・。

昔のアメリカ映画は、
幸福は、反発を通して、異性との出会いを知り、
その状態を「幸福」と呼ぶものだとしていたように思う。
幸福な出会いに恵まれてから、大人になるんである。

んで。

親たちを否定して
若者は大人になってゆく。

結構・・・・・言えてるような気がしたものだ。
親との和解が、青年を大人にはしないと思えたもんだ。

やはり、

恋人であれ、友人であれ、
大人になってからというよりは、

そのプロセスの中に、自分が存在している時、
結局のところ、
幸福感を感じていられるんじゃないだろうか。

お金や能力のあるなしからくる先々への不安感、
他人への深い憎しみなど
そういう世俗に出てから認識する類の
外側にある現実的な障害以前に、

若者の内側にある自己への自信の無さや
存在の希薄感からくる
孤独感や無力感や、時に狂気、
つかみがたい自己の感情の不安定感・・・・

大人になってからなら理解できるような
時間が経てば解決できるような問題の数々に
すぎなかったりするそれらは、

もちろん、大人になっても、解決しきれない問題として
すべての人々が当然抱えこんではいるだろうけど

とりあえず、
通過儀礼として、

若者をはじめて襲う危機的な出来事なんではあるのだ。


それらに立ち向かおうとする時、
さまざまな出会いが訪れる。
それは人との出会いとは限らないけれども。

それらと出会う中で、青年が「幸福だ」と実感した時、
たとえ彼が大人であるといえなくとも、
それこそが「幸福」なことなのにちがいないと思う私だ。

たとえ、傷つく出会いであっても・・・・。


青春・・・熱くて、ほろ苦くて、すっぱい記憶・・・・・


またね♪