“謎”に惹かれ、誘惑されるのが人間のようです

よく知らない人なのに、
想像で誰かを尊敬してしまう、
幼稚な自分てなんなんだろうな、とは思う。

そういうシンプルさは、
創作には必須な感性だと思う。

かといって、
俗物になりきってしまえば、≪創造の神≫から見捨てられると
自分としては思ってる訳で・・・・。

ここでいう俗物っていうのは、
なんていうか、ミーハーな人間のことかな。

周囲が認める人物だから、とりあえず尊敬しとこうか、
というのが、その一種かも。

若い時は、変わり者と見られてソンばかりのような気がしたけど、
それのおかげで、自分の生き方が鍛えられ、
ものの見方を磨いてきた部分もあるかもしれないとも思っている。
(自己満足ですが(苦笑)

生き方を決めることで、他人に振り回されることはない。
自分で考えようとする。

だから、もし悩みがあるとすれば、
やりたいことがなんなのかわからない、とか、
やる気が起きないというような
自分が原因のことが多い。

愚かな人間だよな、自分。

・・・・でも、

私は“自分”というものを持っている。

それで十分だと思っている。

そんな私は、
よく知らない人々を時おり尊敬してきた。
有名な人も多くいた。
本すら読まずに、神秘的な印象であるというだけで
尊敬したりする。

建築家でいえば、シライセイイチ、ガウディがそうかな。
(シライは正確には建築家ではないが)

なぜ、よく知らないのに尊敬できるのだろうか。

私は、人というものは「謎」に弱いからではないかと思っている。
「謎」に誘惑されてしまうんである。

未知ゆえ、惹かれ、尊敬し、敬愛する。


知ってゆくうち幻滅を覚えてゆく場合もあるが、
第一印象は、たいてい続く。
ほとんど恋愛の心理。

幻滅や挫折の数が、時に失恋?や無知の数ともなる訳で。
尊敬される側にとっては、迷惑な話(笑)

だけど、その単純さこそが、
人と人をつなぐのかもしれない。

前にも書いたが、性の本能が、人を求めることにつながる。
性本能がなかったら、孤独になっても、ずっと一人で閉じこもれるんじゃあないだろうか。

欲望が食べること、寝ることだけなら、もっと
人間は仲良くなれそうだ。



小さなことに感動しないことや、
あまり怒らなくなったことを、
「大人になった」ということがある。
実際、大人になると、感動は少なくなるというが。

心の中で耐えていたり、
馬鹿を相手にする時間の無駄に気付いたという
内向や成熟などの意思的なあり様とかでないならば、

小さなことで
驚かないというのは、怒りがなくなるというのは
単なる人間性の「退化」「劣化」の場合もある。

・・・・それを、「老いる」というのかもしれない。


「感動」というのは、心を凍らせておかないための機能の働きの一つかもしれない。


その感動が、恋や出会いの深まりを生む。


自分の生き方の尺度や価値観まで、
いつのまにか外界に絡め取られるのが人間だ。

そしていつのまにか、
自分自身が気付かぬ間に、

あまり感動の起きない、
他者に対して先入観を持って出会うような
通俗的な人間になってしまうのだ。

普通の人間に・・・・・

ツマラン・・・・

旅はそういう人間になってしまう経過の自分を溶かすのに有効だった。

(修正しましたが、まだ読みにくいかも・・・・スマン(汗)