本当の場所を今も探し続けているよ・・・・

コレットの小説に「シェリ」という題の物語がある。

読んだことがあるかないか記憶にないが、
瀬戸内寂聴さんの本で読んだあらすじで味わったのかもしれない。

若い男と、年輩の娼婦の恋の話である。

ラストがすれちがう男女の心理を、
甘く悲しく描き出しているが、

これはフランソワーズ・サガン
ブラームスはお好き」に雰囲気がかさなる、
おフランス風知的悲恋モノである。

こちらは女性の職業はインテリア関係であるが。

ブラームスはお好き」のラストで
主人公ポールはこう去ってゆく青年に言う。
「シモン、私もうおばあちゃんなのよ」
振られた青年は、自分の悲しみだけで精一杯で、
その言葉の意味など理解できないだろう。


六月に上映されるサガンの映画は
観に行くつもりであるが、
期待が裏切られていたらと思うと不安だ。

伝記モノは、役者次第で作家への想像が裏切られるので、
実はあまり観たくないのだが。

複雑だ、面倒だ、ややこしい女だと言われ続けた若き日々をつらい記憶に持つ自分を

20世紀風近代自我ともいえるであろう
サガンの繊細な感受性に置き換えて、
行き場のない自分という存在に苛立つ涙を
知的な癒しに昇華した記憶を持つ人も
きっといるはずである。

のちに、私は外界を受け入れていったが、
私流にいえば、確かめようのない存在をもてあます自分を置き去りにして、
この世的な幸福を探りはじめた。

今の自分と、自分を取り巻く現実は、
本当のものではない、
そう思いながら、「では何が本当のものであるのか」
と問うと答えは出ないのだ。

だから、とりあえず、生きることを選んだ。

尺度は、外界が幸福というもの、である。
かたちのあるもの、かたちのないもの、
そのどちらにも、外界にとっては、
幸福と呼ぶものが存在している。

物質か、
精神か、
そのどちらも私を幸福にはしないことがわかっていながら、
居心地の悪い場所を改良し、
自分をなだめて、
我慢して、
つまり、大人のふりをして
他者に入り込まれたくないがために、
普通の幸福を求めているふりを演じていた。

自分を見失うことが何度あったことだろう。


どんな社会にあってもはみ出す人々がいる。
お金持ちでも、貧乏でも。
はみ出し者たちは、私の友人になってくれた。

いつも気持ちを分かち合える友人がいた。
彼らは孤独で、のんきで、親切で、悩みだらけで、他人に振り回されていたり、
他人を振り回していた。
つまり・・・・魅力的だった。

自分というものを持っていて、
異性にもてて、
世間とずれていた。
外からは見えない彼らのユニークな一面を、
私は愛していた。

時が流れて、成熟すべき時が訪れても、
彼らはかわらず若々しいままだった。

文化の波に乗りながら、
避けながら、
異文化にひたりながら、
青春を卒業していったが、
相変わらず奔放な人々のままだった。
彼らは、今変わり目の時期に入っている。
これは時代という現実のせいもある。


さて、
私は本当のものをあきらめたわけではない。

これからをどう生きるのかよりも、
「今」現在を充実させたいと
願う気持ちの方が私は強すぎて、
未来は常に彼方にある。

様々な想いの混濁と恣意と葛藤と
それらの浮遊する世界にも私は生きて
これを書いているけれど。

サガンのような素敵な人に
なぜなりたいと思わなかったんだろうか、私は・・・・。

確かに、サガンが様々な試練に遭っている時、
私はそれ以前に、サガンには違和感を覚えていた。

それは言葉にならないもので、
私を育てることのない陰りを彼女に観たのだった。

その後、鬱状態サガンの情報を見た。

私は私と同様、サガンも闇を好んでいないだろうと思っている。
だが、大人になるということは、闇を、時々かいま見ることでもある。

サガンは個性的な一生を終えるだろうと思っていた。
それは何があろうと悔いのない、彼女らしい一生だろう。

誰かに羨まれるために生きている人ではない。
自由に生きたかったから、そうしたのだ。
だが、限度を超した自由は、のんきで気楽で他人に気前がよくても、
どこかで破綻が起きてくるのは当然のことだ。

息子に残った膨大な借金。
これをどう思うかだ。

人それぞれ価値観が違うだろう。

私にはサガンのように生きることはできないし、
したいとも思わなかった。

本能的に違和感を感じたら、
ふっと小説や創作のことが、意識から消えてしまい、
現実との格闘が始まった。
同時に、
気楽に肩の力を抜き、
他人との間に距離を置くことも覚えていった。

友達との関わりや恋は常にあった。
自分がとことんダメになった時も、
もう恋はできないほど打ちのめされた時も、
私は出会いがあった。

そしていろいろなことがあった。
つらい誤解もあった。

小説世界で描かれるような
劇的な、美しい別れはなかった。

現実は現実である。

それでも、生きた実感があるのは、
私だけのオリジナルな生の証である。
堂々としていよう。


映画でどれほどドラマティックに描かれようと、
病気や、老いや、人間関係やお金のないことで苦しんでいた時期が長く続いていたサガン

そして、同性愛者でもあったことを今回初めて知った。
ていうか、そうだとは思っていたけれど。

ここまで書いて、サガンの映画が気になってきた。
どのように描かれているのだろうか。

懐かしいサガンのことについての記事(フィガロ)を読みながら、
いまだ魅力を失っていないその小説世界に、
ある意味、新鮮な驚きを覚えた。

ほんとうの場所を探す私の旅は、まだ続いている・・・・・・。