自分の意思で選んだ道かもしれないけれど…
クリストファー・モーリーがこう言っている。(誰?)
ワタシは人間が嫌いだ。
ゆえに、人類はワタシをきっと全員が嫌っているだろう(笑)
ゆえに、人類はワタシをきっと全員が嫌っているだろう(笑)
親の愛情も未だ受け入れきっていないワタシ。
そんなワタシには、どれほど夢があろうと、実現は不可能だろう。
そんなワタシには、どれほど夢があろうと、実現は不可能だろう。
わかっていた。
どんなことも中途挫折がワタシにはふさわしい。
どんなことも中途挫折がワタシにはふさわしい。
そうしていれば、ワタシは周囲の愛を確認できるからである。
父親とは自分の死後、話し合おうかと思っている。
認めない。
彼のあり方を。
見えないものが見えたワタシの言ったとおりになったではないか。
彼のあり方を。
見えないものが見えたワタシの言ったとおりになったではないか。
なぜその方向に努力してくれなかったのか。
彼の「我」は固まり、
信念は独善へ、
独善は自己慢心へ、自己慢心は肥大してゆき、
やがて光は父に届かなくなった。
彼の「我」は固まり、
信念は独善へ、
独善は自己慢心へ、自己慢心は肥大してゆき、
やがて光は父に届かなくなった。
だが、
見える人にはぞっとするような光景だといえよう。
見える人にはぞっとするような光景だといえよう。
二人~三人の霊が見えたことがあった。
見えたと言うより、感じたと言ったほうが正しいが。
見えたと言うより、感じたと言ったほうが正しいが。
父はいくつかの過去世があったようだ。
それがわかっても、これを誰にも言っていない。
親たちには言ったが、とくに父は信じるわけがなかった。
それがわかっても、これを誰にも言っていない。
親たちには言ったが、とくに父は信じるわけがなかった。
生きているうちになんの役にも立たないのが前世である。
なぜそうしたことが見えたり、わかったりするんだろうか。
たとえ、前世とかがわかっても、
人間として生活の中で活用しなければ意味はない。
人間として生活の中で活用しなければ意味はない。
だが、
見えるのはとんでもないことであって、
ふつうではない。当然であるが。
見えるのはとんでもないことであって、
ふつうではない。当然であるが。
むしろ見て見ぬふりをして、
醜い部分を他人に見せないようにして
自分でも見ないで暮らしているのがせいぜいではないだろうか。
醜い部分を他人に見せないようにして
自分でも見ないで暮らしているのがせいぜいではないだろうか。
ワタシははっきりと語れる。
克服の仕方もわかっている。
それはまず、真正面から見ることである。
克服の仕方もわかっている。
それはまず、真正面から見ることである。
呪われた者の実態を。
そして、呪っている存在の正体を。
そして、呪っている存在の正体を。
人格を高めるわけでもなく、
ものごとを正しく理解しようともしない。
ものごとを正しく理解しようともしない。
家にまつわる苦悩で困ってる人もいるように思う。
ワタシなど、あらゆることが空疎だった。
ワタシ以外、状況のおかしさ、奇妙さを気付いていたくせに
口にする人間はいなかった。
口にする人間はいなかった。
ワタシは父親に認識して欲しかった。ワタシの見たものを。
彼はワタシの言葉を理解しようとしてはいたが、
とうとう最後まで理解することができなかった。
こういうのも「業」だと思う。
とうとう最後まで理解することができなかった。
こういうのも「業」だと思う。
それでもワタシの方からのアプローチは積極的に行い、
別々に暮らすようになっても
電話で話をしつづけてきた。
別々に暮らすようになっても
電話で話をしつづけてきた。
大切なものは家族のはずが、
命としてでなく、
責任を引き受ける方法として、彼はいっさいを引き受けたがために
命としてでなく、
責任を引き受ける方法として、彼はいっさいを引き受けたがために
最後には「家族愛」は「自己愛」に変貌した。
自己愛だったならば、それを自覚していることが重要なことである。
それを親としての無償の愛といつしかごちゃまぜになって、
すでにあった「きずなの切断」という業が加勢して、
とうとう最後には自己愛だけが残ったようだった。
すでにあった「きずなの切断」という業が加勢して、
とうとう最後には自己愛だけが残ったようだった。
だが、子供の人生は親の思い通りにはならない。
愛情も受け手がちゃんといて、伝わる手段と土壌があってこそだ。
愛情も受け手がちゃんといて、伝わる手段と土壌があってこそだ。
ワタシの父は、頭は良かったが、
人間関係においては、知的な親ではなかった。
人間関係においては、知的な親ではなかった。
彼の人生は独自のものだ。
成功者だろう。
成功者だろう。
だが、だとすれば、ワタシはなぜあれらの禍々しいものを見せられたんだろうか。
確かに不思議な体験が多かった。
だが、あまりに感じすぎるため、
男女問題では危機が何度もあった。
だが、あまりに感じすぎるため、
男女問題では危機が何度もあった。
霊感というより、超敏感体質といったほうがいいだろう。
ちなみに一般的な意味での幽霊を見たことはない。
父親の霊体はあるが、念を残した幽霊というのとは違う。
でも幽霊といえばそうかも。
でも幽霊といえばそうかも。
正しい道だったのだろうか。
家族の業や責任を一人の人間が背負いきれるものではないが、
背負いきろうとしたという過ちを父は犯した。
背負いきろうとしたという過ちを父は犯した。
母の業に巻き込まれたとも言える父が、
離婚でなく、
合理的に割り切った道を選んだ。
それは「子供のため」という道だった。
離婚でなく、
合理的に割り切った道を選んだ。
それは「子供のため」という道だった。
母の望んだ環境を父は望まなかった。
だが、それを拒絶することは、イコール離婚だった。
だが、それを拒絶することは、イコール離婚だった。
いやなことはそこに進むべきではなかったのだと思う。
人間は最後まで一つのことを続けなければならない。
けれども、
それは絶対にということではない。
けれども、
それは絶対にということではない。
どこかでおかしいなと感じたら、引き返すべきである。
罠はあちこちに張り巡らされている。
自分で選んだ道。
確かに。
確かに。
だが、間違った道を引き返す勇気を持つことも必要だ。
父はどうすべきだったか。
母にひっぱたいてでも、
「俺について来い!」と言い聞かせて、言うとおりにさせるべきだったのだ。
母にひっぱたいてでも、
「俺について来い!」と言い聞かせて、言うとおりにさせるべきだったのだ。
もはや終わったことと人は言うだろう。
だが、終わってはいないのだ。
どんなことも私たちの意識が明日を未来をつくる。
現在が本来のものでなかったら、
明日もニセモノであり、
明日もニセモノであり、
ただでさえ根無しの我々は、
ニセモノの人生をコレクションするだけになりかねない。
ニセモノの人生をコレクションするだけになりかねない。
今が本来のものであるためには、
真剣に生きること、
それに尽きる。
真剣に生きること、
それに尽きる。
真剣に考え、未来をどのように生きてゆくかを決めて、
今を生きる。
今を生きる。
こういうことは父は得意だった。
母にそれを期待したのかもしれないが…
相手に責任をなすりつける形で一家の危機を引き受けた父は、
ワタシは卑怯者だと思うのだ。
ワタシは卑怯者だと思うのだ。
ワタシは多くの霊能者のように、
見えないはずのものが見える?人生だったが、
その見え?方に特徴があった。
見えないはずのものが見える?人生だったが、
その見え?方に特徴があった。
身内などの関連しか見えないことである。
*ここに書いたことは、フィクションとして読んでください。
【引用禁止】
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少し修正しました。