「モンテーニュとメランコリー」を読み始める

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●「モンテーニュとメランコリー」マイケル・A・スクリーチ著 みすず書房1996年刊


精神美と感覚美との比較

そういった比較がよくあるけれど、その実、
どういうことか、結論はどうなっているのか
よくわからない私。

そういうことに無知であり未知な自分。

だが、
今後やりたいこと、主に芸術的なことが主体だけれども
無知や未知ですまされないことが多すぎる。

たとえば。

宗教的な精神というものを
芸術創造活動から切って剥がすことが
果たして出来るのであろうか。

私はできないと思っている。

それは、芸術が宗教とつながっているということではなくて、
過去の芸術活動の多くが
宗教的な後ろ盾があって成り立っているように思うからである。

後ろ盾というのは、
現実的にも、テーマ的にも言えることで

伝統的であったそれが、
いつのまにか
芸術が市民階級まで降りてきて

芸術をサポートするものが
今ではなんなのか──よくわからないけれど、

やはり何らかの自己顕示欲やらに絡まった権威かもしれないが

まずは、現代の芸術活動の源泉というものがなんだろう? 
そう考えた時

混沌としている印象しか浮かんでこない。


建築において、
師のあとを引き継いだライトの師である
サリヴァンの言った言葉である

“形態は機能に従う”

という言葉によって、近代都市の概念が生まれるに至ったが──

今の世界を眺めてみればわかるように、
アメリカという国そのものが
アートとして、世界の中心に登りつめたと言えるのかもしれない。

そして、頂点を極めた後に、
どんな発展にも終わりがあるように

アメリカは都市という概念の博物館のように
やがては国ごと、世界遺産になるのかもしれない…。

いや、すでになるつつあるのかも。

建築においてさえ、サリヴァン
自然と文明との間に挟まれて都市の概念を打ち出しながら、自然を愛し都市を批判するというような
内的に対立したというような矛盾に満ちた価値観を体現した──

これはルネサンスの時代から続く
建築家や思想家たちの人生のあり方と変わらないように思える。

おおもとは、サリヴァンも影響を受けたミケランジェロの生きた
ルネサンスにあるのではないか。

ルネサンスのモトはプラトンだのアリストテレスだの…である。

初めに戻るけど、


肉体的なものと心的なものの比較、
感覚と精神の比較。

私はそれについて、きちんと語れないような無知である。

精神と感覚の比較と言えば、さっきも書いたけど

プラトン

あたりが思い浮かぶ。

プラトンといえば、コジモ・デ・メディチの創設した
プラトン・アカデミー。

フィチーノ
ミランドーラが
ロレンツォが
ボッテイチェリが
ミケランジェロ
いた学園。

けれども…

非常に興味のある
ルネサンス時代の思想の周辺を

うろうろあてもなくうろつき回るのではなしに、

きちんとした思想家や哲学者のものを
何冊か読む必要が、私にはあると思った。

このルネサンス時期の天才たちこそが
私の長年の人生への疑問と謎をうまく説明してくれるとも

私は何十年も前から、そう信じていたようだ。

この本は、モンテーニュについての本であり、
宗教的な恍惚と狂気について、
まじめに語られた本でもある。

現在なら、
誰でもお金を払ってヒーラーになれますよ的な
安っぽい現世利益主義の宗教が
ヒーリングや幸運グッズを売っている時代に、

まっとうな本を読むのも快感である。

お金で買える念動力や、たとえば動物霊などの力を借りたとしか思えない
テレパシーや、
悪霊や邪霊の絡んだような、
身の程をわきまえないような願いや
あるいは努力なしの願い事成就祈願などというものは

精神的な「快」と言うよりは安っぽい「快」だとしか思えない。

永続的な「快」というものからは無縁に違いない。

恍惚というものは、カラダの要するに

感覚の「快」

もあれば

精神的な「快」

もあると言えるわけだけれど、

解放感への執着

というものもあるのだ。
煩悩そのものである。

これの克服も論じているなら、安っぽいヒーリングや、占いもいいんだけど、ねえ…

だが、

優れた思想家たちが
「快」について書いたものを読み始めれば、
お手軽ヒーラーや、安っぽいスピリチュアルの
みすぼらしさが見えてくるはずである。

思うだけですが(汗)

真の学びは、「天から賜る糧」である── byラブレー