「モンテーニュとメランコリー」を読み始める
そういうことに無知であり未知な自分。
だが、
今後やりたいこと、主に芸術的なことが主体だけれども
無知や未知ですまされないことが多すぎる。
今後やりたいこと、主に芸術的なことが主体だけれども
無知や未知ですまされないことが多すぎる。
私はできないと思っている。
それは、芸術が宗教とつながっているということではなくて、
過去の芸術活動の多くが
宗教的な後ろ盾があって成り立っているように思うからである。
過去の芸術活動の多くが
宗教的な後ろ盾があって成り立っているように思うからである。
後ろ盾というのは、
現実的にも、テーマ的にも言えることで
現実的にも、テーマ的にも言えることで
伝統的であったそれが、
いつのまにか
芸術が市民階級まで降りてきて
いつのまにか
芸術が市民階級まで降りてきて
芸術をサポートするものが
今ではなんなのか──よくわからないけれど、
今ではなんなのか──よくわからないけれど、
やはり何らかの自己顕示欲やらに絡まった権威かもしれないが
まずは、現代の芸術活動の源泉というものがなんだろう?
そう考えた時
そう考えた時
混沌としている印象しか浮かんでこない。
そして、頂点を極めた後に、
どんな発展にも終わりがあるように
どんな発展にも終わりがあるように
いや、すでになるつつあるのかも。
肉体的なものと心的なものの比較、
感覚と精神の比較。
感覚と精神の比較。
私はそれについて、きちんと語れないような無知である。
けれども…
うろうろあてもなくうろつき回るのではなしに、
きちんとした思想家や哲学者のものを
何冊か読む必要が、私にはあると思った。
何冊か読む必要が、私にはあると思った。
私は何十年も前から、そう信じていたようだ。
現在なら、
誰でもお金を払ってヒーラーになれますよ的な
安っぽい現世利益主義の宗教が
ヒーリングや幸運グッズを売っている時代に、
誰でもお金を払ってヒーラーになれますよ的な
安っぽい現世利益主義の宗教が
ヒーリングや幸運グッズを売っている時代に、
まっとうな本を読むのも快感である。
お金で買える念動力や、たとえば動物霊などの力を借りたとしか思えない
テレパシーや、
悪霊や邪霊の絡んだような、
身の程をわきまえないような願いや
あるいは努力なしの願い事成就祈願などというものは
テレパシーや、
悪霊や邪霊の絡んだような、
身の程をわきまえないような願いや
あるいは努力なしの願い事成就祈願などというものは
精神的な「快」と言うよりは安っぽい「快」だとしか思えない。
永続的な「快」というものからは無縁に違いない。
これの克服も論じているなら、安っぽいヒーリングや、占いもいいんだけど、ねえ…
だが、
優れた思想家たちが
「快」について書いたものを読み始めれば、
お手軽ヒーラーや、安っぽいスピリチュアルの
みすぼらしさが見えてくるはずである。
「快」について書いたものを読み始めれば、
お手軽ヒーラーや、安っぽいスピリチュアルの
みすぼらしさが見えてくるはずである。
思うだけですが(汗)