アートへの接近と挑発する都市  または意思する主体と価値ある未知を暗示する外界 なんちて・・・(^^;

はやい話が、日常をアートに近づけたいと思いつつ
なかなか思い通りにならない現実に溜息ついている自分がいるとする。

その自分が
メディアや外界のイベントや知人友人の、あるいは
あかの他人の(笑い)活気ある活動というか意欲に刺激されて
自分を

今にも殻を割って外に飛び出しそうな卵の中のヒナのように感じて
じれったく思っている状態を想像してくだされ。

都市は挑発するのだ。


そう。

最近、ワタシはムズムズしている。
創作への一歩を未だ踏み込んでいないというのに。

創作以前の感覚的な言葉以前の領域で
老いた精神を前に

うんざりする以上に
逆境に燃えている自分がいる。

都市よ

ワタシを挑発せよ!


そして


文学的に、こう言ってやろうじゃないか。

垂直に下りていこう。魂が死んでいないのを確かめるために。



未完に終わった世界征服への夢が(笑)
野望が必要以上に沸々と湧き上がってきているのだ。
つーても、創作上のハナシであります。

いつか“神”になってやろうじゃないか。


ビッグブラザーのごとき存在の在り方に興味はないが
オンリーワンてやつにも
いいかげん」飽きた。


恐怖と不安と嫌悪に全身が被われている時ですら
私が自分を保っていた。
真摯というよりは壮絶であった。

自分、自分、自分、自分・・・・・


ワタシは自分が好きだ。

だが、

ワタシをなぜワタシは信じることができたのか。

実は理屈抜きで信じることができたわけじゃあない。
ワタシだって生ききれなかった。

だけど

何かがワタシを生かしていた。


見えない世界に憧れるというより、
それを次の段階としか認識しないワタシであるが
基本的にそれがワタシのすべての基である。

ワタシの

生きる意思

は見えない世界が育てた。

記事タイトル関連はここまでで(笑)
実はタイトルとは何の関連もない内容を書いてみたい。
いや、実はとってもとっても関連はあるんですけど・・・・



アメリカでポジティヴ・シンキングが流行ったのはいつだったろう。
今そういった考えは時の経過のなかで変化を遂げている。
日本にも流れ込んできたけど、ワタシはギャグとして受けとめていた。

目先の発想のような価値観が流行しては新しいものと入れ替わる。
思想も社会通念も常識も時代からの要請であり、普遍的なものではないものは多いと思う。


勝手なことを言うけど
「国のために生きることこそ価値ある生き方である」だと言ってる人々は、
おバカだったんじゃないだろうか。
これはワタシの主観にすぎないんだけど・・・
今もそんな人が多くいる。

悪い考えだとは思わないけど。
私だって右肩あがりな考えだとか知人に言われたし。
よしあしでなく、国が個人に良いことをしたかどうかという話である。
相当片寄ってるんで、半分ジョークとして聞いてほしいです。

ワタシの実感からすれば
この国にワタシは何もいいことをされていない。
教育も環境も家族の価値観もひっくるめて
国が人間個人個人の心まで支配して
縛りつけて、抑圧して

それが家族のあり方にまで影響し、それは
流れ流れてワタシの本来の姿まで抑圧したのだ。

「自由に生きなさい」と言いながら
「みんなと同じようにしなさい」とも言っている状況だった。

どちらからも離れたワタシだけど。

コリン・ウイルソン

がすごいと思ったのは

そういう私の心情を

情欲で説明している

とワタシが感じたことにあった。

ワタシの前世まで食い込んだ深い謎は、彼でフロイトよりも簡単に解けたのだ。

コリン・ウイルソンの見方で言えば、
「国のために生きることこそ人間の価値」なんて言ってる人は
健全な人間ではあるのだろうが。

何が健全なのか?

善悪観がである。



さて。

謎解きが終われば、次は

事態の混乱を整理して自分の頭で考えて、
言語化したり、行動したりする段階となる。

価値観の変容はこの経過中におきるかもしれないけれど
まだ、本当の人生を生きてはいない状態だろう。

ドストィエフスキーのように、地下生活者?の自分についての手記を何度も書き(笑)
自分の内部の
弁護士と検事と天使と悪魔があれこれ議論を重ねて

他人や自分をとことん見つめてみる。

つらいことがきっとというか、絶対出てくる。



自分を救い上げることができなかったら
自分の中の心理学者が分析する、とならないか?

こういったことをやるのは
自分を救い上げることが目的だから
自分が心理学者としてスキルがなかったらば
ていうか、余裕がなかったならば・・・・

ここで現実の心理学者に接するのもいいかもしれない。

自分に起きたあれこれをサバサバした気分で見つめられないとき
心は老いているのかもしれない。


結局

人は誰もが世界征服を夢見ていると思う。
あるいは一度は夢見たことがあるに違いない。
人間とはそういうことを志向するように創られているのだろう。
ニーチェショーペンハウアーあたりの受け売りかもですが。

要するにだ。所詮

人間は神のお創りになったロボット

でしかなく

原罪の意識というのか、カルマというのか
そういうものを個人的なミッションとともに身につけて
生まれてくるのだろう。

いちいち検証しなくたって
自覚できると思うけど・・・・まあ、そういうのが人間なわけで。



こういうことを文字化できた場合、なるほどなあとワタシなどは思うわけだが。


世界の汚濁の混沌のなかに呑み込まれてしまった人間の多さこそが
社会の混乱の原因の一つかななどと思ったりする私。


コリン・ウイルソンニーチェだの何だの哲学者の書を広範囲に読んだのだろうし
人間には本能として身勝手な欲望や暴力への志向があることを
当然、ワタシなどよりはるかに深く理解しているだろうけど

ネットのもたらす弊害や
心理的視野狭窄に陥ったり
日常より暴力的になってしまいやすいことについては
どう考えているんだろうか。

もしかして出版されてるのかも・・・新しい本を買わなくなってるので
ワタシのチェック不足ならご容赦を。


ところで。

ネットのシステムそのものが論理的であり、美しいとかなんとかいう人は多いけど、そのシステムの奴隷になって、心も脳も腐食してゆく人々の多い現実は、コリン・ウイルソンにとってはどうなんだろう?


たとえばの話だが、
アトムのような人間に奉仕貢献する善良なロボット予備軍のようなシステムばかりでなく
アイロボット」(アシモフ原作)の中に出てくる“ヴィキ”のように
ビッグブラザー化したシステムの化け物も存在しているかもしれない。

ヴィキは人工知能かなにか?で推論の結果、人間が自分が保護すべき愚かな存在と認識し
人間を支配しようとする。

ネットのシステムの場合、人工知能というより、愚かなワタシが想像するに
ネットワークを操れる立場のあくどい人間の野望かなあ、たとえば世界征服みたいな──
それをネットを用いて思いを遂げようとするイメージかしらん。
あああ、イメージ貧困でごめんなさいです、汗!

社会的に弱い立場の自分を受け入れられず、けれども日常彼らは周囲から
「いい人」と印象を持たれているにもかかわらず
ネット上では堂々とできる、本当の自分で自己表現ができる──それはとてもいいことだと思う。

だが、
ネットの怖いところは、抑制が効かなくなることだ。
人間が自分の思念のコントロールを失いやすくさせるということにあると思う。

文字は怖い。

というか、
結晶化された創作物のすべてが怖いと言い直そう。

なぜか。

自分を縛ることになるからである。

振り返ってみてほしいけど、
あなただって自分の気持ちが唯一これだ、ということなんて
一時的な結果でしかないと知っているはずである。

今目の前にいる愛する人
十年後同じ気持ちで愛せるのだろうか。

エス
では二十年後はどうか。

恋愛ばかりではない。

今の気持ちは次々と変化するし、頭のなかはあれこれ情報が飛び回っている。
こうしよう、ああしようと決めても、次々新しいやりたいことが浮かぶはずだ。

それを文字に書いていったら膨大な量になる。

個人の思念を全部書き出したら、お前は人間じゃないと思われるだろう(笑)

とくに女性の気持ちはコロコロ変わる。

というわけでワタシの結論である。

ネットワークと情欲は似ている。


根拠?
ないです(笑)

このテーマで誰か本を書いてほしいなあ・・・・・



冒頭に戻ると


記事タイトルと関係のない内容は
実は今と深く関係している。

今は生きる意志を人並みに持っているワタシであるが

道なき道を歩くにしても、実は人間同士の関係が背後に隠れていたりする。

自分のことを本当に大切に思ってくれる人が両親でないとき
私たちは孤独を感じるけれど

実は

同行二人であったりする。



形を変え
姿を変えて

時に本、時に友人、時に袖すりあう他人によって
こだわりが不思議に解ける時がある。

愛を与えてくれているこの沈黙という存在が私たちに与えるものの名を

「励まし」

という。



がんばれ 時にがんばるな 休め 時に休まず歩め



(読みにくくてすみません。後に修正する予定です)