必然の祈りはまっすくで、ひとすじなものである

言葉はいかようにも作れるし、言葉でもモノでも、それなりの念はこめる事が可能。

念で人を引きつける事もできる。
しかし、そんなシロモノは作為的で、結末は動機次第では破綻する。

たとえば世界平和、また争いがなくなりますように、あの方の病が治りますように、他──

このような利他的祈りでさえ、作為的だと言えるのではないかと私は常々思っている。

祈らないよりはマシだという人もいるが、やはり最近そうは思えない。

だが、家族などの大切な身内や、身内に近い隣人への、祈りや病気治癒への願いは違う。

身近な者への助けになりたい思いは、場の必要から生まれる必然の祈り。

切実で、一筋のまっすぐな一念に貫かれている。

そんな時、支えを必要とする者に、どんな支えが必要なのかわからない時ほど、悲しく、残念な事はないと思う。