(創作)もう一度耳元で歌って、あのスキャットを……

もう思い出す事も希になってしまった、大昔の思い出。
でも、思い出そうと思えば、昨日の出来事のように思い出せる。
色褪せたモノクロの映画のようにではあるが……
ワインのように、芳香を放つような記憶なら幸せだろう。
だが、これは、いわゆる酸っぱいワインになってしまった物語だ。


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ある土曜日の午後、新宿のとあるカルチャーセンターに向かう途中の事だった。
時間がかなりあったので、新宿の入ったことのないビルで軽食を取ろうと、マップを開いて
選んだビル。
そこのビルにあるショップで可愛いアクセサリーを買い、ベーカリーカフェに入ると、かなり空いていた。
人混みで落ち着かなかった私も、ホッと一息つけそうだ。外の見える窓側の席に座った。

すると、まだ、パンを注文もしていないうちから、『あれ? エマちゃん』と、私の名前を呼ぶ声が。
振り返ると、昔好きだった人がそこにいた。
複雑な事情があり、喧嘩別れなので、懐かしくて、思わず感激という感情はない。

『アズマさん! ……ここで何してるの?』
『ディナーショーだよ。○○・・・ビルの・・・でね』
『ああ…』
『すごい偶然だね』
『……』

女の子に、デカいトランクを2つも持たせて、彼は何も持っていない。
何様なんだ。しかも、派手な格好して。いくらなんでも。街中で。あ、仕事か。
若い女の子は付き人か。

『もしかして仕事なの。その格好──』
『まだ1時間ある。驚いたよ、こんな偶然、あるもんなんだねえ』

何言ってんだか。あなたとの事では、こちらから見れば、偶然が多すぎるくらいだった。
それを、私は運命だと信じたりして。あの頃は、馬鹿だったなぁ、とつくづく思う。
あなたにとっては、運命なんて、誰ともないんだろうけれど。

『いやー、本当にびっくりだ』
『……』
『こんな偶然はなかなかお目にかかれない。……何か用事あるの。これから』
『ええ。習い事に行く途中よ』
『僕のショーを見て行かないか』
『とんでもない。何を言ってるのよ。高いでしょ。いえ、そういう問題じゃなく』

彼は付き人の方に顔を向けて、
『レイちゃんの席を譲ってあげてもいいかな。どうせ、座ってる時間なんかないんだから』
『確かに。いいですよ』と付き人が答えた。

『無理よ。私の講座の方のお金が無駄になるじゃない』
『サボれよ。これからいくらでも行けるだろ。でも、僕のショーは、今しかないんだ』
『……無理よ』
『こんな偶然はないんだ。聴いていくんだ』
『アズマさん、2年前、私達ひどい喧嘩したのよ。あなた、その事、忘れてるようだけど』
『喧嘩?』
『そうよ。思い出しても、私には、嫌な記憶しかないんだけど。忘れたの?』
『こんな偶然があれば、そんな記憶は、水に流してあげるよ』
『はあ? あなたね…』

彼が水に流してあげると言っても、傷付いたのは、私のほうで、彼ではない。
2年前、さんざん、根拠のない事で、彼が怒りを一方的に私にぶつけてきたのだ。
この人は、それを忘れてしまったのか。
その日は、過去のゴタついたこだわりを、もしかしたら修復できるかもしれないと
あらたな気分で出かけた日だった。だから、よけい覚えている。
私は、声にならない声で答えた。

『私には……水になんて……流せないわよ…』
『ん? 何か言った? とにかく聴いていくんだ。命令だ』
『アズマさん……』

その日、呆然としたまま、私は、とあるビルの、とある場所で、テーブルに案内され、
彼の歌を2年ぶりに聴いた。
案内された時は気付かなかったが、丸いテーブルに、6人ぐらいが座り、すでに
ビールグラスが配られていて、ビールが注がれ始めていた。
隣の人に、
『つい、さっき、偶然、2年ぶりに彼に会ったんです、そうしたら、無理やり、
聴いて行けって。カルチャーセンターの講座があるのに。私、こんなつもりは……』
どう思います? と、馬鹿な質問をしようとしていたら、彼女は、ビールグラスを
私に取らせて、静かにビールを注いだ。
『いいじゃない。もらっておきなさいよ』

コン!
ビールグラスが鈍い音を立てた。
『乾杯ね』
『はい。乾杯です』

私には、身の置き所がなかった。華やかに着飾ったご婦人達のなかで、地味なジャケットに、
汚いジーンズという私は、完全に浮いていた。

だが、隣席のご婦人との乾杯の後、ビールが空きっ腹に回り出して、混乱していた
私の頭の中は、次第に、問題事は、すでに整理されたかのような趣を呈してきた。

ショーが始まった。

この隣席のご婦人が、とある政治家の母親だったのだが、単に、ビールとワインで
心地良かった記憶しか残っていない。


偶然は、常に意味がある。
唐突に訪れたこの偶然が、どういう意味があるのかを、何となくだが理解したのは、
4,5日経ってからだった。

2年前の私には、落ち度は何もなかった。ちょっとした行き違いだった。
アズマさんは、誰よりも優しいけれど、相手の立場からモノを見ないし、
自分を振り返るという事をしない人。
短気で、身勝手、怒りが湧いたらストレートに表現する人間だった。

好意を抱いたのは彼のほうが先だった。
好奇心の強い私は、引き摺られるように、彼の世界にのめり込んでいった。

私達は、試されるように邪魔が入った。
本当に邪魔をしたのは、彼自身の心だった。
私達は、もしかすると、本当に愛し合えたかもしれない2人だったのに。

なのに、脆すぎる神経の彼が、もっと脆い私を平然と傷付けた。
すぐに、私達は仲直りした。だが、小さな事で、激しい喧嘩を繰り返して、
お互い神経がすり減っていったのだ。

答えの出ない事を、考えなくなって2年。
再会してわかった。
私は、まだ、彼が許せない。まだ愛していたから、許せない。
けれども、彼にとっては、もう、私など過去の遠い記憶に過ぎないに違いない。

『またね』で別れた。
だが、それが、私にとっての、永遠の彼との真実のサヨナラ。


一番愛していた。
そして、愛してくれた。短い間だったけれど。

もう一度、毛布にくるまって、耳元で、あなたの歌が聴きたい。
私達の間で流行っていた、あのスキャットを、あなたは、今も覚えているのかしら。



(終)





(この記事にある人物、設定、内容はすべてフィクションです)