少女漫画の記憶から、正しい認識への深まりへの旅…という人生について想う……(霊媒体質者の20代前半の記憶が混乱している件)

うーむぅ……映画『シカゴ』を見ながら(聴きながらか?)、まつざきあけみさんのブログを
20記事ほど閲覧させていただいた。
見たこともない少女漫画雑誌が、沢山紹介されていて、思わず、読み耽った。
雑誌や付録のコレクターでもあられるようだ。

子どもの頃、私は、テレビもあまり観てないし、少女漫画本も買ってもらっていない。
兄は、少年サンデーや少年マガジンを、買ってもらっていたのに。
でも、中学生になると友達と、今月号は私が買い、来月号は友達が買うというように、
協力しあって、1冊の少女漫画の月刊誌を、毎月読んでいた。

漫画好きは、成人するまで続いた。
自分で漫画のようなものも描いていたし。
ストーリー帳のようなものも作っていた。
だが、成人後に漫画を読む事は、意外な外的要因で減少した。

母親は、私の事で悩んでいた。
というより、祖父母と暮らす事が私の限界を超えていたし、母にも、重苦しくなってきていた。
今後、人間らしく生きてゆくには、不穏すぎる邪気が、古い家屋に充満していた。
身勝手な人々を形成する環境が放つ、緩慢な邪悪の空気が長く滞っていた家だった。

今から思えば、母親は、自分で勝手に、私を、自分の悩みの原因にして、
実際の悩みから現実逃避していたのかもしれないと思えるのだけれど、
その当時、そんな解釈があるということさえ、考えるはずもないほど田舎で、
重苦しく、私達家族は、素朴に無知だった。

まだ、私も悩みの解決に理屈を使わず、被害者という自覚も持たず
(実際に被害者ではないのだが)、内省という、深く不可解な闇に等しい黒い森に、
「カルマ」という獲物を狩りに行こうという意思さえ芽生えていなかった頃を含む時期──

これも数回書いたと思うが、母親は、2人の占い師に、私の事を観てもらったらしい。
不思議な事に、私の写真を見て、占い師2人が2人とも、私の背骨が曲がっていると言ったという。
私の体調や精神状態が良くないと思っていた母親は、その原因が、曲がった背骨にあると思ったのか、
私は、接骨院で背骨のマッサージを受ける事になった。半年ほど通ったろうか。

当時は背骨が曲がっていた自覚は無かったが、疲れやすかった事は事実で、
接骨院で施術してもらってからは、疲れやすさは減少したと思う。
私は、「背骨が曲がっていたから疲れやすかったのだ」という事実を、素直に受け入れた。
同時に、背骨が曲がった原因が、漫画を描く事が原因だとわかっていたので、
漫画に熱中する事をやめるしかなかった。

本当にやりたい事をやりたい、自分らしく生きたい、という願いを強く抱いていたが、
本当にやりたかった事が、前述した理由で諦めるしかなくなり、
結局、自然に、文芸の方に移行していったように思うが、その道もまた、芸術の道なので、
熱中すると、身体がまたおかしくなるかもしれない危機はあった。

初めての小説を仕上げた時、すでに会社員を辞めて、雑誌の出版社に運良くバイトで
入っていた時期で、創作の為の環境としては、物語を考えるには恵まれていたと思う。
この時期は、創作の訓練期間として、読書にも物語作りにも、結構、集中出来た時期があった。
充実していて、楽しかった。

ん?

集中できた時期ってか?
おかしいな。

あらゆる事に集中出来ない不快で不穏な暗い雰囲気だったから、楽しくなかったのが、
いつから、集中出来るようになったんだ?

ハテ?
この頃に引っ越したのだったかな──楽しくない状況をクリアしたって事は……
引っ越していなかったら、クリア出来るはずがないからね。
現状維持でいたら、不穏さが悪化する事はあっても──つまり、すさみきった重苦しさが
増幅する事はあっても──霊的な邪魔の無い場所などどこにもない家で、楽しく、
創作に集中出来る事などありえないのだから。

精神分析のカウンセリングにも通っていた時期と重なるかどうかは不明だが、
20代前半なのは間違いないと思う。

なぜか記憶が曖昧である。
いや、どれもはっきりした記憶であり、実感がある。
だが、不思議な事に、この時期はいくつもの記憶が重なるのである。
2人以上の私がいたんじゃないかと思うほど、いくつもの価値観で生きていたような気がする。
まず、バイトも3つほど、掛け持ちしていた期間がある。
家に居られなかったのだ。あまりに団らんを過ごす環境としては、雰囲気が良くなかった。
だから、引っ越した。

うん、そうだ。
だから、引っ越したのだ。
祖父母との淡々としたお別れ。
また来るね、的な軽快さがあった。

引越しは、この時期計3回~4回くらいあったかも(笑)
天使が『神戸へ行きなさい』と言ったから、というのも含めると。
(しかし、これは、私には、実感があるようなないような……霊的にはスゴかった)

この20代前半から半ばにかけて、私は、毎日、活発に行動していたと思う。
今からじゃ考えられないが、モノスゴイ体力だった。
ヒントがあると思えば、出掛けていたし、本も読んだ。
色んなコトを試した。
よく考えてみれば、誰でも、若い時はそういうものなのかも。
少なくとも、私にとっては、そうだった。
天使も来たし、悪魔も来た時期でもあるが…

日記を付けていなかった事が、本当に悔やまれる。
この時期、いつ、何があり、どこへ、何を求めて出掛けたかなどが、メモでもいい、
残っていたなら、精神の経過の繋がりを探りやすいのに、と思う。
あれだけ、目まぐるしく行動していたら、まあ、移動時間も多いので、疲れるし、
日記どころではなかったのだろう。とにかく、若かったなあ。

でも、エッセイや詩や小説は残っているし、こうして、記憶を辿る事も出来るので、
記憶を整理していけば、今、必要としている、人生の再構築への足掛かりを
つかむ事も出来るだろう。きっと……

再度言うが、記憶が曖昧な部分がある。

天使が絡み始めたのは、いつだ?  
そう、思い出した。家族で引っ越してからだ。

修行(?)のプロジェクトを組んだのは天使達であるが、そうだ、これは、20代後半だった。
いや、そうでもないかもしれない……(どっちやねん!?)

まあ、神戸行きを命じられたのは、いかにも、魂の浄化が目的だったし、
人間らしさを取り戻させる為の、人生の非日常的な旅でもあった。

霊的になったのは、この行動を命じた彼らの意思の力が働いていたからだと思う。
何としても、私に、正しい尺度を組み込みたかったのだと思う。
この尺度さえわかってくれば、地獄に落ちる確率は減るからだ。

彼ら天使からの問いに私が答える形で、様々な事象があった。

そうやって、私は今日まで来ているのであり、人間である私の、思考力と意思を
働かせる事なしに、精神の奇跡は起きないのだ。

こうした長期プロジェクトには、必ず、各層におけるゴールがなければならない。
各層というのは、現実と見えない世界と、家族や他人と作り上げている世界や、
自分の所属する世界や、内的な助力者のいる世界など、様々な場所、領域の事。

まず、この世の一般的なゴールは、もともと、愛から生まれた家族が、心がバラバラになったり、
信頼が壊れたりした状態であったなら、再び一つになる事を目指さねばならない。

バラバラであっても、約束して家族になっている。
崩壊しているように見えても、もう一度愛をつなぐ事。それだけが家族のゴールだ。
新しい家族でいようが、どうであろうが、貫くテーマは、原点だった家族で原因を形成
している以上、常に原点に、意識を立ち戻らせて、振り返る必要がある。

これは、どんな崩壊した家族にも課せられるテーマでもあるだろう。
というか、そのゴールを設定する事なしに、日々の悩みは解消されない。

この20代前半に、ひとつ目の悟りを経過している認識があり、
天使から、それは三分の一の悟りだと教えられた。

いわば、この時期は、私の人生の実験室だとも言えた訳で、実際に、『神戸へ行きなさい』
と言われた時、精神の浄化の仕上げをしに出掛けたのだと、あとから理解した。
ここで天使の足を見た(笑)
天使が見えるなど、尋常ではない。精神的にかなり深い状態でない限り、不可能だと思う。
ただ、天使の波動を味わった意味は大きい。
『神の御使い』の波動がわかるという事は、『正しさの尺度を知っている』という事でもある。

ただし──『知っている』というだけで、『身に付いた』という事ではない。

しかし、正しい尺度は、どんな人もある程度まで来た人は、本当に迷う。

例えば、今までなら、愚痴って、他人のせいにしても平気だった人が、人のあるべき姿に目覚めると、
愚痴る事は間違いだと知る。
そして、自分の行いに問題があったのではないかと、振り返ることが重要だと知るようになる。
これは、正しい行いとは何かを『知っている』状態である。

知っている状態

から、

身に付く状態

までに行くという事は、心が深い認識をしており、脳が視野を拡大して、
つまり、明晰に働くようになっているという状態となるという事である。
これは、当然、健康的な、健全な、立体的な、創造的な、建設的な視座に立っており、
動機も行動も、神の意識がつらぬいていなければいけないと願う認識である。

これは、また、神の助力が無いと、出来ない状態の事でもある。

なんだかなあ~


こうして、文字にしてしまうと、すんごくわかりやすいのだが、
自分がどれだけ、神の助力から遠い世界に、自ら流されてきたかが、よくわかる。
常につねに、神の世界につながれていたいのだけれど──それは、とても難しい。

気付くと、朝方、神を感じながら、夜には、意識は難破船となり、座礁しているんだもの(汗)


けれども、今も、どんな時も………あの三分の一の悟りが起点となっているのかもしれない。
天使に騙されて、心の道に入った私は、普通ではないのだ。
変わり者なのだ。






(一応修正しましたが、また修正するかもです)