物事が悪い結果になる因縁をつくらないよう生きるコトの重要さについて

物事が悪い結果になる因縁をつくらないよう生きるコトの重要さについて

これは重要な事なので、気が付いたので書いておきたい。
これは、私が、霊的に見ている知人へ、わかりやすく理解出来るよう、書いたものである。

次元の隔たりが生まれてしまい、私の言葉が伝わりにくくなっている。
なぜ、次元のズレが生まれたのか、原因はわからないが、彼女は、ちゃんと成長している。
しかし、成長の途上に、様々な罠が待っている。

この罠のほとんどは、自我意識の傷から来ると思っているが、ご承知のように、
傷のない人など、ほぼ、いない。
つまり、ほとんどの人々が、求道の途中に、自我意識から来る罠には陥るものだという事になる。

次元がズルッとズレた時、『えっ!?』と一瞬驚いた。
時間が経たないと、これがどういう事か、正しい判断はできないではないかと思うが、
あれこれ思い浮かんだが、最終的に、彼女との世界が分かれたと判断した。
私は外に出たが、彼女は、元の場所にいると。

実際に、彼女の語る言葉の内容は、自我の拡大が限界まで目一杯拡大解釈されており、
以前の約束は守られず、以前よりはずっと弱くはなっていたが、邪悪霊に影響されており、
自分自身を客観的に見る事は不可能になっていた。
私は思った。
『あれだけ訓練しても、自分を客観的に「見る」事が習慣化されていないんだなあ……』
と。

次元がズレはじめると、住む世界が、これまで同じだったのに、価値観などの違いで、
住む世界が違って来てしまう。
『マズイ事になった』というのが、最初の感想だった。
お互いの次元が変化すると、語る言葉の意味が、まったく違って解釈されてしまうだろう。

こういった次元がズレるのは、そういう時期が地球に来たという事なのか、それとも、
個人的な事象に過ぎないのか。(謎)

引き寄せメソッドは問題なのか

間違いなく言える事は、人間は自由意志を持っているので、すべての与えられた時間は、
自分の意思で選択した未来を選べるように出来ており、現在の状態は、過去の自分の選択
によって、表れており、味わっている現実である、という事になる。

そこで表れた自分の見ている現実は、こうしたいと思った現実だが、もう1つは、
こうなってほしくないという現実である。
過去の、自分の強いこだわりが、自分にとっての良きも悪しきも引き寄せる。
だから、日々、ネガティブにならず、ポジティブに明るく生きる事が、願望実現の基本的な
姿勢の1つとなる。

ポジティブ(前向き)に生きている事は、何の問題もない。
問題は、なかなか前向きに生きられない事である。
この部分については、潜在意識を活用する方法とか、いろいろやっている人がいると思うので、
解決可能だろう。

私が個人的に問題だと思うのは、自分の世界を「創造」し、自分から、外部の人間に向けて、
『願望実現した』、『引き寄せた』と「宣伝」している人々かもしれない。
彼らの引き寄せの事実とは、引き寄せた、実現したというのではなく、人力で、自分の
思い込みで作り上げた捏造世界というものに過ぎないのではないか。

私は、マーフィーの法則の本は熟読したほうなので、『あれが引き寄せの走りだったのかな?』
というなら、引き寄せ肯定派だけれど、現実に、若い頃、ある程度の夢は叶ったと我ながら思うが、
それは、引き寄せの方法によるものではなく、自己探求によって得た結果だった。

他人に本やDVDや講演会に来てもらうために、引き寄せの成功を公開するショーには、
辟易(へきえき)してしまう。


八正道という、生きる正しさの尺度

実際、自分の修行の始まりを思い出しても、「見る」事から始まっているし、しかも、
この「見る」事だけで、かなり長期間費やした。八正道の「正見」なんだよね。

道がどこから始まろうと、最終的に会得する認識は、悪い結果を引き寄せる因縁を
つくらない生き方というか、知恵(智慧)、あるいは認識を会得する事なので、
同じような道のりになるだろう。

つまり、いきなりだが、ここから言える事は、求道の修行をする上で、最も重要な事は、
経過において、一切の偽りの自我は封じ込めねばならないという事だ。
(この「封じ込めねばならない」という言葉について、知人は、『キツイ』『拒絶反応がある』
と感想を言っていたが、胸に収めていただいた、というか、現実を知ってもらった)

さて、いきなり、何を言い出したか、と思うだろうが、
八正道においては、「偽りの自我」を、「超自我」に置き換えてゆかねばならないと、
私は思っているワケなんだよね。
(「超自我」というのは、フロイトでいう「エス」とか「イド」かしらん? 『 大きな自我』
とでも言うのかな)

たとえば、感情に呑み込まれた自分を、
別の自分が客観的に見ている自分が育っている、感情に呑み込まれても、一旦は耐えて、
(抑え込むのではなく、本来の自我で感情のコントロールが出来るようになっている)人々は、
外に出すことが少ないという傾向にあると思う。


偽りの自我

『偽りの自我って何だよ?』と疑問が湧いた人へ。
それは、生まれてから、今日までの自分自身が、当たり前に、自分の思い、考え、価値観だと
思っている「自分」である。
人によっては、『自分らしくない』と感じる現実を引き寄せている。

偽りの自我に、苦悩を通して、気付いてゆくプロセスの例

人生が何をやっても上手くいかない感がある、人間関係が初めは良くても最終的には
上手くいかなくなる、物事を最後まで達成出来ない、職場をすぐ辞めてしまう、敵がやたら多い、
新しい事を進める勇気がない、いつもイライラしている、勉強(仕事)に集中出来ない、
両親や教師に反発してしまう、いじめられやすい、特定の人(動物含む)をいじめたくなる、
人生が空しくてたまらない、時々死にたくなる、など、

こういった状況になっていたりすると、そこで生まれる感情は、たぶん、
自分の本当の、本来の姿から生まれる感情ではないと、私は思うのだ。

育った過程で、様々な価値観や善悪の尺度を身に付けてしまったところから来る感情
であって、その周囲の反応とか、自己保身の思いとか、損得とか、
あるいは、そうなってしまっている相手や環境の発している感情に、苦しめられているのだ。
この場合、自分を振り返っても、答えは出ない。
静かに歪みを生む場から離れよう。

極論すれば、理不尽と思うかもしれないが、私達は、こういう状況になる事を承知で生まれて来ている。

気晴らし、気分転換で、消える悩みなら自分を振り返る時間も出来るだろう。
こういう時に、邪悪霊は、ココロに入り込むスキを狙っているので、
注意が必要だ。

自分を見てゆく、というプロセスの中で

私達は、嫌な、辛く、苦しい状況の中で生じる感情に、日々、振り回され、苦悶している。
だから、気持ちの余裕が出来たら、まず、自分を見てゆく、つまり、振り返ることをおススメする。

その過程の中で、人間関係を一旦リセットする必要が出てくるかもしれない。
人間関係にこだわっているなら、相手に問題がある場合もあるからだ。
あまりに、苦しい、損をしていると思う、馬鹿にされていると感じる、利用されていると感じる、
自分は相手にへつらっていると思うので嫌だ、など、なんでも良いが、公平さを欠いた関係からは、
とっとと足を洗える人は洗った方が良い。仕事となると難しいだろうが。
(ここで、また、邪悪霊のネタをブチ込みたくなるが、省略)

ひとりになって、考える場所が必要なのだ。
「場所」というのは、何も、個室や山の中という訳ではなく、「ウチなる場所」も指す。
ウチ側が、内省出来るだけの穏やかな状態になれるなら、外界がやかましくてもかまわない。
自分を振り返って、自分らしい自分を取り戻そう。

人としてのココロを失った自我

問題は、もう、そういう段階を超えてしまった人々の場合である。
再度書くが、
人生が何をやっても上手くいかない感がある、人間関係が初めは良くても最終的には
上手くいかなくなる、物事を最後まで達成出来ない、職場をすぐ辞めてしまう、敵がやたら多い、
新しい事を進める勇気がない、いつもイライラしている、勉強(仕事)に集中出来ない、
両親や教師に反発してしまう、いじめられやすい、特定の人(動物含む)をいじめたくなる、
人生が空しくてたまらない、時々死にたくなる、など、

こういった状況が長く続いたり、繰り返しの状態から抜け出せないでいると、やがて、
自己都合で、
身勝手な解釈、理由、動機で、
理性が効かなくなり、
衝動的に、何らかの良くない結果となる行動を、実行してしまうようになるのではないだろうか。

人を傷付けたり、自分を傷付ける結果になるのではないだろうか。
逆に、ウチに向かえば、身体やココロの病気になってゆくのではないか。
あるいは、そういう状況に自分が陥りやすい、そうしたくてたまらない衝動を抱え込むなど……

要するに、自分の不満や苦しみを小さなうちに、何もしないで、放っておくと、段階的に悪化してゆくと思う。

そして、取り返しのつかない現実を、引き寄せてしまうのだ。



これが

偽りの自我に動かされている人

の姿である。

そして、マズイことに、
こういった

偽りの自我に動かされている人々

は、

自分を客観的に見る事が出来なくなっている。




(読みやすくする為に、随時修正しています)