宗教の教祖が似非と分かったら………『牛のよだれのごとくーヨウスケの神理探求ー』に学ぶ、求道ジブシーにならない為の生き方

(この記事は、私の主観的考察と、印象批評的、かつ、個人的偏見に偏った部分が含まれている恐れがあります。その点を考慮して、お読みくださいませ)


宗教の教祖が似非と分かったら………『牛のよだれのごとくーヨウスケの神理探求ー』に学ぶ、求道ジブシーにならない為の生き方



幸福の科○とGL○の問題というか、
幸福の科○の本性がハッキリわかり始めたとか、
あるいは、疑問を感じて、アレコレ調べているとか、あるいは、
どこかを真似してるんじゃないかとか、気付いちゃって、とか
『ナンジャコリャ』とか思い始めた人とか、思考力が動き始めた人向けに、
しかも、真剣に道を求めている人向けに書いている。

顕正○の会員さんだったかな、幸福の科○の会員さんに質問しているYouTubeを、
いくつか、最近見たのだけれど。
まあ、議論出来るほどの、個人に思考能力を求める教義や方法を持つ教団ではないと
最初から思っていたので、何とも思わなかった。
幸福の科○は、カリスマ教祖の言った事を暗記するだけの宗教だと、私は思っている。
顕正○に興味持っちゃったくらい、あの質問者さんは、真剣に正しい道を
求めている姿が、印象的だったお (-ω- )
アタイは、真実を求めてるからねい。

はじめっから、幸福の科○のやり方は気に食わなかった。
やっぱり、予想通り、トラブル続き。
それでも会員が増えていったのは、GL○の存在を、知らない人が多くいたからだろう。
GL○──あんなちっぽけな宗教団体………ビッグネーム作家平井和正(『幻魔対戦』などの作者)
さんの存在がなかったら、歴史に残ったんだろうか、疑問だワ……
平井さんは、2代目教祖高橋佳子から、エノクの生まれ変わりだと言われていたが、
そういう事を知りたい向きは、この本を読みたまい。

高橋留美子の優しい世界ー
https://www.amazon.co.jp/高橋留美子の優しい世界―女神の“おもしろユートピア”-トクマ・ノベルズ-平井-和正/dp/4191537113

高橋という姓が同じなのは偶然で、意味はなく、後半に、2代目教祖とのエピソードを
書いた、あとがきが載っているゾ!
「あとがき」と言っても、平井和正さんのあとがきは、毎度、めちゃ長い。
今なら、お値打ちだね☆ 大した内容ではないが、美しかった若き高橋佳子に
メロメロな中年のオサーンの姿が、とってもロマンちっくだ。


で、幸福の科○の件の続きだが、あそこは、GL○真似しただけだから。
が、後継者ではないかと当時を知る人にとっては、アタリマエの話で、けれども、私は、高橋信次さん、
東大出のとある若者が後継者ではないかと目星を付けていたらしい。
当然、面識のない幸福の科○の人ではない。

しかし、まあ、なんだ、縁のない人間に語らせる、そういうこともあるかもしれない、
私も幸福の科○の霊言本は、数冊読んだ。
というのも、当時、ライターを志していて(火を点けるアレじゃないよ(笑)宗教関連を
書かされそうになって、必要に迫られたのだ。

で、読んでみて、どうだったか。
『これは、間違いなく、オリジナルの団体の教義を無礼なやり方でパクって、トラブルとなった
経緯(いきさつ)を知らない、多くの人々が引っかかるなあ』と思った。(事実、そうなった)
また、本の内容のボリュームで圧倒されそうだった。
GL○を知らなかったら、完璧に引っかかるだろう。(実際、モノスゴイ組織に育った。今は知らんけど)

ホントに、宗教や見えない世界の真贋を見抜くのは、難しい。
何を尺度にするかは、なぜか、今の時代は、人それぞれだから。

私は、人柄、道徳心、倫理観、善悪感のバランスかなあ。(その前に、霊的に見るけれど)
あの人は、能力者だからとか、空間から物を出せるからとか、テレポートできるからとか、
そういうコトを重視して、表面意識を軽視していると、トラブルが起きやすいのだ。
能力は二の次、重要なのは、人柄である。


だけど、はじめはわからないわな。
生身の高橋信次さんの姿を見てきた人々、付き合いがあった人々は、まあ、はじめは、
幸福の科○教祖に、信次さんが現れた(憑いた)と聞けば、確かめたくなるだろうが、
時間経過とともに、本性は明らかになってくる。
波動で見れば、最初から引っかからないのだが、サタ○系というか、チカラのある邪悪霊は、
波動もごまかしてしまえそうな気配で来ると思うので、難しいかも。


私は顕正○の会員さんが議論をふっかけているYouTubeを何本も視聴して、マトモに答えられない、
議論も出来ない、思考力が停止した幸福の科○会員さん達を、特別な妄信者、狂信者達だとは思わない。
ああなってゆく心理的カニズムは、すでに、多くの書物で解明されているにもかかわらず、
まだまだ、カルトに免疫のない人々は、どこにもいる。ズボッと、教祖の言ってる事、鵜呑みにして、
頭で理解すれば、救われた気になっている。
教祖との出会いが奇跡で、選ばれた人間で、教祖を信じない人々より優位に立っているつもりなんだろうなあ。
もう、こういうカルト脳の人々は、ありふれている。
教祖の本性がわかってきても、洗脳が解けるのに時間がかかる。

私のココロの師である高橋信次さんの教団、昔のGL○にもいた。
教義の内容にかかわらず、妄信者、狂信者はどこにでもいるのだ。

昔、カルト宗教に妄信、狂信してゆくテーマについては、さんざん書いてきたが、テキもさるもの、
手変え、品変え、未だ、飽きずに、スピリチュアルと名を変え、ゼツミョーな手口、斬新な商法に、
惹かれるのか、騙されている人々が、あとを絶たないね……

平和で何より。いや、暗雲立ち込めていたのか。
もう、いいかげんに、真っ当な日本人を、真っ当な人々が支えて、成り立つ状況を所望だワ。


話は戻るが、そういえば、後に、ペラペラと口の上手い高橋信次さんから、
『あなたが私の後継者になってください』みたいなコトを言われたという、『自称・後継者』が、
何人もいたらしい。
高橋信次さんが最終的に、エル・ランティだと悟る前のことでしょうね。
エル・カンターレではないよ。某教団の主宰は、「エル・カンタラ」という、高橋信次さんの
語った、土地の名から、前世名をパクったのであろうと予測する。(軒下「正法」か)

しかしながら、高橋信次さんて、ある意味、問題がある人物ではあるよ。
ホントに口がまわるというか、遠い未来を明日に起きる事のように話すので、
それを聞いた人々は、素直にそうなるんだと受けとめてしまい、何もしなくても
そういう良い未来が来るんだと誤解してしまう。
ユートピアというか理想郷は、人類が、ひとりひとり、自分のテーマと願いに沿って、
他人とともに、手をつなぎ合って、健全で建設的で創造性のある目的を持って、
努力を持続させて、道を切り開いて、生きていかねば、創造出来るものではないのに、
トコロテンみたいに、ポンポン、自動的にそうなるんだという誤解を、
彼は、人々に与えてしまったのではないだろうか。

それは、罪ではないのか?

というのは、高橋信次さん自らが、『他人を間違った道に導く事ほど、誤った行(おこな)いはない』
と言っていたからだ。

私などは、語るもおこがましい人間であり、人類の方向性になど、思いが及ぶものでもないが、
自らの学びに狂いが生じてほしくないゆえに、常に、我が師の高橋信次について、様々な人々が
語る自らの胸の内を、それが真摯なものであれば、参考にさせていただきたくなるのである。


さて。

ヨウスケさんという方は、GL○と関連組織などに関わった事のある、多くの人々が抱く疑問に対して、
怜p正々堂々と、真正面から糺してくださる前向きさを失わなかった方だ。
私が個人的に表現するなら、大げさとは言われないと思うが、ある意味で、「功績のある」方として、
このヨウスケさんの名前は、少なからずの人々の胸に残るだろう名である。
高橋信次の醸し出す異様にして、光り輝く存在感は、周囲の彼と関わり合っていた人々の残す余韻の
ようなものからも、垣間見えることを、ヨウスケさんは教えてくれた。

幸福の科○に不信感を抱き、あそこが亜流にすぎないという感想を持ち、
かといって、オリジナルなGL○にも、躊躇する向きや、
現世利益でない真の求道心を求める向きにおススメかなあ。
こんな人もいるんだな、のおひとりみたいな感じで、時たま、立ち寄らせていただいている。
(残していただきたいブログです。)


牛のよだれのごとくーヨウスケの真理探求ー
https://blogs.yahoo.co.jp/kaijuku1999

こんな感じの内容(ある記事より)
堀田和成先生の死を悼む(五十)
イメージ 1
                       アラハンの悟りを得た仏弟子たち

    
                GLAの反省(七) 

             <人生問答> 霊能と人格(二)

 三、

 次に霊能とアラハンですが、アラハンとは人格的な修行者を指し、さまざまな通力(霊力)を

持っていても、それをみだりに見せることはしない人です。           

つまり、アラハンの境地に達した人は、八正道を物差しに日常生活を重ねているでしょう。

守護霊や天使の指示があっても、まず八正道をフィルターにして考え、

現実に適っているかどうかをたしかめた上で行動するでしょう。

要するに、アラハンを得た人は通力もあるが、良識をもって生活している人です。

みだりに人をおどしたり、恐怖感をあたえり、ものを強制したりすることはありません。

 四、

 アラハンの境地に達するにはどうするか。それには、八正道と反省の生活を着実に行ない、

現象にふりまわされない心をつくる以外ないでしょう。              

アラハンになりますと、いろいろなことがわかります。わかると言うより、教えられます。

人間は所詮めくらで、明日もわからず生活していますから、迷ったり、物思いに沈みます。

しかし、そうしたときに必ず適時、適切な指示がなされ、どんな事態にも耐えることができます。

ここがアラハンを得た人と、得ない人のちがいでしょう。

 五、

 心の中に守護霊がいて、こんどはこうなる、この人と相談せよ、しばらく休め、行動を起こせ、

というようにその時々に応じて指示が与えられます。

また、お前の行く道はこうだ、あの道は間違いだからこの道を行け、と言われることもあります。

ともかくも、驚くほどの適切な指示が与えられ、安心した気持ちでその日を送ることができます。

しかも、それでいて日常生活は、そのことについてあまり語りません。

それこそ世法に準じて生活しています。

 六、                          

 法には忠実で、信念を持って生活しますが、人とは妥協します、もちろん事と次第によっては、

そうはいかない場合もありますが、たいていは妥協してゆきます。

なぜかと言いますと、他の人とは転生もちがうし、カルマも異なる。

今生での生活環境も同一ではないし、教育も考え方にもズレがあるでしょう。

これを杓子定規に一致(調和)させることは、不可能であるからです。 

妥協は、心にシミをつくりますにおで、そのシミをつくらないように、時と共に捨て去り、

あるいは後々の反省材料として、心の隅に、いつまでも置いておかない工夫を重ねています。

こういうことで、アラハンを得た人は法に忠実であり、そして信念を持って行動し、人に不快感を与える

ことは、まず少ないでしょう。(完)