「負」は決してマイナスではない  恐い話?(2)

続き。

何かが見えている時、不思議な気分になるのだ。
善し悪しの世界でなく、光に満ちた世界でもないけど、地獄でもない。
(いったいここはどこだ?)
というような。

「見える」ということは、解釈しだいでどうにでもなるまずい面もあるが、
プロの霊能者だと、その解釈こそが、腕前の見せ所という気がする。
(そういうこともあらためて、考えてみたいな。ここで)


さて、この友達は、出身地にそれなりの言い伝えがある場所で、
また、私が「見えた」と言っても、過去の事件の残像が見えたというにすぎなくて、
それ以上の事はワタシには守備範囲ではないので、
念などは拾うことはないけどお…(´`:)

だけどね。

「見えてしまう」ということの不可解さ、ときに不快さは、今でも同じなのだ。

今でも、たまに「見える」時は、不気味に思えるし、
そういったことに関わること自体、実のところゾッとするので、
知人個人には関係なく、しばらく連絡を取らなくなる。

私が「見えてしまう」ことは、自分が幼い頃から住んでいた土地や
家にまつわることにも原因があるように思う。
(体質ばかりでもないような)
育った環境や、周囲の人間への思いが潜在意識に負の感情として残っていたら、
同じ傾向の知人、友人が引き寄せられて、特殊な現象は生じるように思う。(想像)

「負」か…。
ある意味「負」だが、人生、理不尽としかいえないことも数々あって、それは、
どんなに洞察力があっても、引き寄せてしまうことだってあるのだ。

反面、同時に幸運なこともある。「負」は決してマイナスではなくって、幸運と背中合わせになっていたりするように思う。

老子のいうように、陰陽どちらもあって、このカオスこそ、
世界を生み出すエネルギーそのものなんだと心底捉えることができたら、
人生も達人なんだろうね。

占い師の知人にしても、強運で、金運には相当恵まれている。
育った家の家柄は古い。だが、煩わしい事がいろいろあったようだ。
知人だから色々知っているけど、現在のある部分だけ切り取れば、
他人からは幸福にしか見えないかもしれないな。

(終わり)