プレイメイトたちを賛美していた頃

ワタシは女性だけど、同性の裸が好きである。
(でも、超芸術的なもの、マッチョなものは受けつけない)

大掃除の季節になってきて、本の整理をしていると、
2000年のPLAYBOY 6月号の別冊付録が出てきた。
「PLAYMATE25!」という題で、25年間のえりすぐり美女たちを
集めた写真集である。

中でも、最も美しい、というより好みなのはキンバリー・コンラッド
ヒュ-・へフナーの妻となった完璧な美しさを誇る美女。
だけど、この写真集の中の彼女は二人の子どもを生んだあとの、
ヘフナーと離婚直前のキンバリーであり、32歳のはずだ。

なのに、溜息の出る美しさだ。
20前半の頃の彼女をみてみたい。
さぞ輝くばかりだったろう。



1980年代の半ば頃だっただろうか、
PLAYBOYの外人女性の美しく可憐な表情は、さまざまなアメリカ社会の
若い世代の生き方を想像させてくれた。

アメリカの階級社会について書かれた本を興味深く読んでいた頃は、
1990年代半ば頃だった。
ワタシはさまざまなことに傍観者だったけど。
それでも、プレイメイトは常に魅力的だった。

アメリカで起きたこと(たとえば社会的にダウンサイズされた地位)は、
日本にもやがて起きるんだ、という定説(?)
そういう説を受け入れながらも、社会学者のように、こうした状況を
社会問題として認識はするものの、傍観しているだけだった。

現在、日本にある格差社会、これらは実際は、かなり深刻な問題。
でも、自分自身が常に悩みを抱えていれば、やはり傍観者だなあ。
ダウンサイズ、この弊害は、ここ10年、個人的な出会いの中で
多少(というかトラウマ化しているほどだが、実は)見てきたなあ。

地位のある人の価値が以前ほどでなくなる。
地位などに左右されない気ラ~クな立場のワタシを、
怨みをこめた目で見ていた男を思い出す(苦笑)。
地位のある人間に、地位に関係のない人間性の正邪が、表面にあらわに
なってしまうのは、このような時代であるのだ。

それでも、グラビア美女達の裸体の美しさは永遠なのです。

(改稿済)