岸田秀と寺山修司で「性」や「家族」がテーマって…どうよ?

岸田秀「幻想を語る(2)」河出文庫1985年刊

を読んでいて、寺山修司さんとか村上陽一郎さんとの対談や、
他に幻想とは本能の代替物か、というパネル・ディスカッションなどが、興味深いのです。
岸田さんは「人間は本能が壊れた動物だ」でおなじみの学者さんですが。
100円は「買い」でした☆
1980年代のインタビューや対談…

寺山修司は、今も愛され、ファンの多い奇才だと喧伝された人です。
そういえば、奇才って、たいてい俳句とかやってるなー。
今でいうときっこさんかな。適当に言ってますけど。(笑)
私には、メディアの隙間に個性を刻印してる人々って、
確かに注目されるし、興味深いけど、
ふと、水木しげるさんや泉鏡花さんが浮かぶのだ。

目立つためには、特異な個性で勝負するしかないと思い、
特殊な世界を創り上げて勝負に挑んだ創作者たちの本音が透けるのだ。
取り組むうちにホンモノになっていった、

大衆にとって、本流ではないけれど、根源的な存在感をアピールする個性派人生の一群。


たとえば、宮沢賢治は、人々に浸透していて、愛されてるような印象がある。
私にとっては、いやらしく感じられる、好きじゃない作家の一人だ。

なぜかはわからない。
だけど、それを言うと変わり者扱いされそうな、「銀河鉄道の夜」の作家。

自分を嫌いになるような感覚で、彼を嫌いなのだ。
ワタシは自分大好き人間なのだが…。

宮沢を好きになれたときは、より成長できた時なのかもしれない。)

でも、それって

リカコとか江角マキコという芸能人を好きじゃない感覚と同じなんじゃないかと思う…。
本人は嫌いじゃないのに、芸能界での居場所狙いの動機がわかりやすくて、なんだかなあ…と思うタレントさんたちだ。

ハリウッド・スターなら、もっと見え見えで、かえって潔く見えるけれども……。

ノブリス・オブリージュだっけ?
セレブは慈善事業に、稼いだお金の一部を捧げるのはお約束みたいなもんだけど。

外国のどこの企業だったか、発展途上国で、発電所をつくりたいとか計画してて、
ああいうのは、中国のスーダンでの動機不純な助力の仕方と変わらないのだろうと思えてしまう。

人間て、自分に有利になれなきゃ、投資する気になれないんじゃないだろうか。
企業や国家なら企業のイメージアップや、資源の独占狙いだったりしないか。
自分のエゴと向き合う前に、まず
干ばつ対応や、地雷撤去や、二酸化炭素削減や、ごみ削減や、
食糧危機問題他に追われている今の人類。

生きるって、究極なんのために生きてるかなんてわからないことに、一応はなっている。

宗教では神様がいるけど…。

これからのキーワードは、「倫理」ではないかと思っている。
環境倫理学のすすめ」って、捨てようと思っていた本がある。
その中で…と書こうと思ったがやめた。
疲れた。
人間は様々な問題処理能力に行き詰まりを感じているというが、
結局は人間の自然観が行き詰まってるのだというようなことを言っている。

納得。

読み直そう…。(笑)

さて。

たとえば、人間て、魂を覗きこんだら、意外と、生きることがいやでいやで仕方のない自分が存在してるかもしれない…。

それでも生きて行かねばならない意味を、見い出さねばならぬとすれば、人間は
考えるのをやめるしかないのではないだろうか。

つらい日々を過ごしていると自己認識できる人々に、
麻薬のような非日常に身を置くことの是非は問えないと思うけれど。

だが、ある時、プッツンと切れて、人間を殺害することを快感だと思ってしまうような状況に、
人はいつでも陥る危険と背中合わせな感じな世の中だ。

人間はそれほど、自分をうまくコントロールできるものではないのに、…
カオスな事態は、生まれる前から、すべての人間にある。
これこそ「自明」「アタリマエ」なことである。

たとえば、
母親から生まれた奇跡を得ていても、ときにその母親が、その可能性の芽を摘むことがある。

時に、父親が、ときに家族のすべてが、
敵意に満ちた目で自分を見ることもあるかもしれないのが人間の人生だ。

時に、周囲は思いやりと励ましに満ちていながら、
自分一人が、歪みを自覚するときもあるのじゃないだろうか。

努力でどうにもならない道に出くわすと、いい人だらけの中で、自分は孤独ということもあるかもしれないし。

ウチなるテーマと、ソトにあるテーマが、個々の人生に、生まれつきもれなく付いてくる。

多面体のサイコロ付きで。(笑)

んで、結論。

人間の環境のシチュエーションなんて、まさしく複雑で、善し悪しでなど絶対に語れない。

と思うんだよねえ。

人を評価する時、「あの人はいい人」な人は、別の人からは「あの人はよくない人」だということもある。
というか、
それは普通によくあることだ。いわゆる、

「相対的」

というやつです。

他人への印象を短絡的に結論づけることは、
言葉以前の煩雑な存在動機の絡み合う人間どうしにとって、
本当に考えたい重要なテーマだと思っています。

などと思いながら、この記事を修正している訳ですが…。

しかしながら、

事態の問題解決思考中の段階で、こうではないか、こういうこともあるかなと
発想をあげておくことは必要不可欠なことだとも思う訳です。

自分の解決できる範囲の限界を知るために。

通常、自分にとっての「問題」なんて、多くが無知や非礼や誤解から生まれているだけで、才能とは関係ないことが多い。

才能が問題化する時は、ほとんど自己内部からのストレスによるアンバランスな自我表出の形で出るような気がする。
それは未熟さとは違い、不安定さであって、
一時的精神的危機かもしれないが、その安定は、成熟の外装をまとうこともあるようだが、
寺山さんや宮沢さんや水木さんたちはそうではなく、
文化的境地の個人的体現とでもいうか……。

本の内容に触れる前に、いろいろ考えさせられたなぁ。
でも、そういうことを考えてしまう内容の本だった。



この記事。また随時直すかもってことで。

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八日の日曜日の昼に歩行者天国秋葉原で、
通り魔による最悪の事件が起きました。
本当に、なんていうのか…
亡くなった方々のご冥福をお祈りします。