どう生きたかったのか? 人生の原点に戻ろう

ただ苦しみや迷いがあって、それに翻弄されているだけじゃ、
事態は何も変わらない。

かといって、
自分を責めても、自分を可哀想と慰めても、
むしろ、
他人のせいにしたい思いに苦しんでいるだけみたいに思える。

そういう自己憐憫てやつは、
自分を大切にしているようで、
実は真逆のことをしているにすぎない。

自分を大切にできない人間に、
他人を大切にできるはずもなし。

他人によりかかって、
事態の好転を願っているだけで、
自分というものから逃げているにすぎない。

事態はそれでは好転しないのだ。

現状維持か、
現状打破か、

どちらかを選ぶしかない。

けれども、

こういうことを、「真正面」で「堂々と」悩むことができるのは、


今まで、自分に嘘をつかずに生きてきた人間だけだと思う。


自分に嘘をついて長年生きてきた・・・大げさに言えば、
周囲を自分の嘘の巻き添えにしてきた人間は、
それにクレームがついた時、「理不尽だ」と思うのではないだろうか。

だから、

人生相談に持ち込む人々の多くが、
自分の心を見ていないまま、

つまり、

自分が自分の人生に嘘をつき、
罠を張り巡らせて、他者(自分以外の人間の意)との関係を営む年月の末、

にっちもさっちもいかなくなって、
人生相談に駆け込んでいるケースが多いように思う次第である。

大人の駆け引きだのなんだのが交錯し、
彼がそういったからこうしたんです、
子どものためにどうしたらいいんですか、

相手のためにどうした、なのにこうされた、
自分は精一杯やってるんです、
理解してくれないのは相手である、
こうなってしまって、自分は不幸です、
裏切られました、

・・・これって、現在の感情であり、どうしようもない気持ちなのだろうけど。

ここまで来るには、原因なしに来ないだろう。

人間関係に規範があるという人と、
そういう前提のない人と、
ぜんぜん考え方は違うわけだろうけど、

とりあえず、「なんとかしたい」という意思、意志があるから、相談にやってくるわけで・・・。

ならば、
少なくとも、まずは、現在の苦悩の原因となった出来事の
始まりと経過くらいは、事実を見てゆくべきであって、

当然「感情」も“こう思った”という「事実」を提示できなくちゃ、

現在の「感情」を
正しく見い出すことはできないのではないだろうか。

自分の気持ちをごまかしている場合、
そのことを客観的に見られるようになってくれば、

相手に対する、自分の「思いこみ」や「誤解」が見えてきて、

自分が、実際には、
相手に対して、どう思っているのかが
見えてくるのではないだろうか。

傷つくのが怖くて、
プライドが壊れてしまうので、
自分をみじめにしないために、

相手を思いやる形(本音を出さない)を選ぶ人もいる。

裏切りは時に残酷だからと、
馬鹿にされることは情けないことだと、
生きる上での自信喪失につながるからと、

場合によっては、そうすべき切実さがあるように思うけれど。

特に男性は、
自分に嘘をつくことが多いと思うわけだが、

本当の自分に至りたい人ならば、
挫折や失敗は人生につきものであり、

その時には、

勇気がいるだろうけど、
地に墜ちる砕け散った自我を経験して、
きっと、成熟できるのだろう。

もちろん、そこで安穏としていてはダメだ。
失敗を意識化して、自分の傾向を知って、
自分を受け止めるのだ。

同じことを繰り返せば、もっと酷い未来が来るのは必定。

こういう振り返りって男女に限らず必要なのだ。

自分に嘘は・・・ついてはいけない。


それはカルマを深くする。
生きているうちに、本当の自分に至りたいのなら、

どう生きてゆきたかったのかを、
人生への動機を、
原点を思い出して、立ちかえって
見極めるべきなのだと思う。


そうできないことを言い訳にして、
長々、現状を変えずにきてしまった
自分がいうのもおこがましい話だけど。
苦笑なり・・・

(以上、走り書き。後に修正、加筆するかも。)