恩恵の世界観 道元とアウグスティヌスは似ている?

道元アウグスティヌスは似ているか?

て言ったって、道元は好きだけど、もう一方の方はボチボチ読書してる段階。

アウグスティヌスなんて、

ロヨラやフランチェスコや龍樹(漢字合ってる?)
その他モロモロの一部の偉大な宗教者たちと同様に、

もと女性好き

のイメージしかない(苦笑)。

ていうか、
そういった最も世俗的な世界の
ドロドロした物事に挫折や失望してこそ、

この世にあらざる美的な世界の存在を期待できる信仰の世界に
不退転の思いで、飛び込むことができるのだと思う。

が、

男性の性欲にまつわる煩悩の克服が
信仰への鍵になってるなんて、

あらためて思う。


西洋の哲学も、文学や映画も、
宗教観が常に根っこにあることを思うと、

結局、

現代の娯楽文化もあらゆる思想も、男性中心主義なんだよね。

まあ、いいや。

話すと長くなって、「ブログで気晴らし」じゃなくなるもんなあ・・・。

ただ、上に書いたことは、
ワタシの創作のテーマに触れているのだ。

話はぐるっと戻るけど(笑)。

とにかく、アウグスティヌスなど知らんのだが、
あるジャンルのインテリさんたちにとっては、一般常識・・・らしいが。

「知っていて当たり前」byイヤミなインテリさん

インテリじゃないワタシには難しい内容ゆえ、
アウグスティヌスを女たらしだったとでも思わなきゃ、興味が出てこないんだよねェ・・・。(ーー;)

実際、遊んではいただろうなァ。アウグスティヌスさん・・・

アウグスティヌスは、自分で自分を「放蕩者」と言ってるんだから。


絶世の美女を母に持つ道元は、マザコンだと思う・・・。
どこがこのふたり、似てるというのだろうか?

読書をすすめて、理解を深めたいと思っています。


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少し触れると、
世界を完璧な「善(=神)」によって創られた、とするアウグスティヌスと、

すべてのものが成仏しているとみた若き道元と、

二人とも、世界をパーフェクトなものと捉えていたということらしい。

そこで、二人とも

なぜ悪が存在するか

という疑問を持ったんである。

なぜ修行が必要なんだろうか・・・

道元は問うたのだ。

悪を見出した視点。これこそが二人の共通点。

そこから二人は、探求を始めた。
よく、自然の草花も樹木も生かされているのだから、
悪もそのまま生かされています、許しましょう、という解釈をする場合があるが、大違いで、

アウグスティヌスは、この世界は創られつつある世界として、
自分も生かされてゆくために、自ら責任をもって、神の創造行為に参加する・・・こんな感じかな。

道元も、積極的に世界に働きかけてゆこうという意思みたいなものが、思想にあるような気がする。

自他一如という言葉を思い出す。


自分が世界の一部として自覚される。しかもそれが、単に偶然的な、あってもなくてもよい、ちっぽけな一部ではなくて、世界を成り立たしめている本質的な一つの部分として自覚されること、(後略 )「アウグスティヌス講話」p.141


この中で善く生きることによって、いずれ成仏させてゆくべき課題としてのあり方を、
このまったき世界はしめしていると理解する道元

内に取り込む形であれ、外界に自分を投げ込む形であれ、

積極的に前進していく意思を感じる。

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パウロ親鸞と似てると言われていますが・・・。道元も似てる人がiいたんですね。
人間、時も所も違えども、思い(願い)は同じということか。


【参考】

ラッセルの考えと、道元アウグスティヌスらの立ち上がりが真逆。
まったき神による創造をラッセルは肯定しているが、
ラッセルはこの二人と違い、自己の思想から、悪のテーマを抜いている。


●「アウグスティヌス講話」  山田晶著 新地書房1986年刊