「カルマ」と「ワナ」

人生にはさまざまな罠が
生まれた時から待っていると思うけれど、

それがどのようなものであるかが理解できたら、
たぶんかなりスッキリするんではないかとと思うんである。

たとえば、

身近で見ていたもので、地獄までおつきあいさせられるようなワナに
人生を支配されたような人がいた。

いつからがワナにかかっていたのか、謎なのだけれども。


主観の解釈であるので、それを頭に置いて読んでほしいのだが。

まず身近な人物の名前はAとする。
Aを罠にはめた人物はB。

BはAの上司だったが、Aの仕事面での能力や責任感、
信頼できる人柄を誰よりも買っていた。

BはAを自分の仕事を任せたいと思っていた。
しかるべき地位を用意した上で、ゆくゆくはBの地位を引き継いでもらいたいと思っていたB。

Aは賢かったし、能力もあったが
生真面目で融通のきかない男で、
後ろ盾がなく一匹狼だった。

信頼には責任を持って応えようとする誠実さを誰よりも持っていた。

初めBは、Aに親しみと深い信頼を寄せ、
心を開いていたようであるし、目をかけてもいたが、
次第にそれが表面的な関係となり、Aを利用するだけとなってゆく。

Aは誰に対してもわけへだてなく接していた。


Aにしてみれば、
自分を買ってくれる人がいることは嬉しく、
ありがたいことだったが、だからといって、
Aは、公的な立場を私的に利用するような行為
を見ても何も言わずにすますことができるほど、
甘い人間ではなかった。

Bは小ずるいところがあった。
Aはまさか
謹厳実直を持ち味とする自分を取り立ててくれたBが、
自分の欲から、会社の持ち物を利用するような
程度の低い人間性の持ち主だとは思わなかった。

AはBに失望した。

だが、
個人的感情などより問題点を是正する事の方が先だった。

AはBに注意したが、B
は最初はAを
「誰でもやってる事じゃないか。もう少し話がわかるやつかと思ったが・・・」
と苦笑して見ていた。

BはAの生き方が「要領が悪い」と見ていたことだろう。

Aは何度もBを注意した。

「こんなこと、いずれはばれてしまいます。もうやめてください」

だがBは聞く耳を持たなかった。
私的な事のために、公的な金銭に手をつけていたが
やめなかった。


やがて、

時が満ちて、外部から、Bの素行の悪さが噂にのぼるようになった。

会社が動き出した。

Bはビクビクしていた。
だが、責任は自分だけでなく、部下も含めた一蓮托生であり、
もはや、今以上の地位に昇れぬBは
「もう悔いはない。好き放題やったわい」
と開き直っていたようだという。

いつでも、こんな会社やめてやると、
警察でもどこへでも行くからというつもりだったようだ。

「なにしろ、これが明るみに出れば、会社自体が、信用を失うのだから」
Bはそう先読みして、自分の立場は、それほどまずくはならないだろうと思っていた。

だが、

会社はBを訴えようという前提で調べはじめていたのである。

そんな時だった。

Bの健康が思わしくなくなったのは。

Bは入院し、その地位を追われる前に死んだ。


Aは、Bの失態の責任を引き受けなければならなかった。
すべてのこと(後始末)が終わると、
徒労感もあったが、
Aの胸の内には、サバサバした感情もあった。

やっとBから解放される・・・


責任

人はこの「責任」というものをどう捉えているのだろうか。

Aは初めはひたすらBのために尽くして、
Bが評価されるために仕事をしていた。

最後には、

横領のような犯罪行為に手を染めたBに
巻き込まれる形で、
Aの立場は飲み込まれてしまった。

もっと早く会社にチクってれば、
Aは少なくとも自分の立場は守れたのではないだろうか。
Bのような邪で不実な上司など、会社に訴えるべきだったのだと思う。

だが、Aはそうしなかった。


Bに信頼された初心を忘れずにいたのだ。

それ故に、

Bに悪行をやめるよう注意を促していたのだった。

だが、その結果、どうなったか。


BはAを逆恨みしたのである。

いつ会社にばらされるかと、疑心暗鬼の心でいたB。

Aは、Bの期待以上の仕事をして、
いつの間にか、Bを追い越していた・・・。

こういった能力の差が、上司のBの妬みを買わぬ訳がなかった。

Bが公的なものを私的に流用しはじめたのは
そういった時期だったかもしれない。

「犯罪を犯したくなる動機」

というものは
自分の限界を他者や出来事によって
思い知らされた時に起きる
「ワナ」のような心境かもしれない。

魔がさす

ということだろうか、Bはあまりにも、
部下たちの前で、あからさまに
犯罪行為を行っていたというが。

ともあれ、

このBは裁かれる前に死んだが、
本当の悲劇は、このBの死後、起きるのである。

Aの誠実だったものの見方は、
いつしかずるく野心的だった
Bのような見方に似てゆくのだが、
これほどの「悲劇」があるだろうか。

この背後にワタシはどのようなメカニズムが
働いているのだろうか? と思っている。

霊的に

見えるものを通してならば、
言葉でなく、背筋も凍る実際を説明できるのだが・・・。

ワタシにとっては、これほどの

外側(現実)から見た印象と、
霊的な事象から見た感覚との
衝撃的なほどの「乖離」を
目の当たりにしたことはない。

「これはカルマというものの実例だ!」と思った。


言語を越え、
時空を越え、
命を生きる中で、

「己を見失う生き方をするとどうなるか?」

の実例を、これほどあらわに見せられ、

未だ解釈に戸惑い、困惑する出来事はない。

出来事をマリモに例える人がいた。

なるほど・・・

自分の内面で結論を出せないまま、
いずれの解答を待つ「人生の謎」は誰もが持っていると思う。

たいてい「謎」は他者との関係から生まれる。

「謎」を解くには、多くの他者が必要であり、
解けた時には、

自分の個人的感情だけでなく、
関わった縁のある人々と
深い部分で共有できるものだと思う。

そういった奇跡を見てみたいものである。
まずは
自分が変わることからしか起きないことは確実(溜息)

「責任を引き受ける」というのは、
野心があってはならない。

カルマは乗り越えたいという欲は持っていいと思うが、
「謙虚さ」に裏打ちされている必要があるように思う。

「自分に溺れる」という心理は「業(カルマ)」を深くするのではないかと思う。


ワタシはこれを認識しているだけでも、
ずいぶん救われていると思っている。

こうした心理が怖くて、実力を伸ばそうとしないのかもしれない・・・
それほどに、人が陥りやすい愚かな心理の一つだと思っている。

かといって、決して「謙虚さ」があるという意味ではないけどね。
(;-.-)