生まれたら死ぬことが決まっているのに・・・・

一つきりの命。

一度限りの生の時間。


永遠に生き続ける人間はいないのに、
真の意味での死の恐怖を、
大人になる上で必要な知識として、
子どもに叩き込む親は希だと思う。

だけど、死ぬのは恐怖だ。
その親にとっても・・・・。

どのような理由であっても、
人生の時間を、
死によってもがれることが告知された時には、
ほとんどの人は「なぜ?」と問うことだろう。

しかし、
なぜ、生まれたときから死ぬことが決まっている私たちが、
死ぬことが決まったら
「なぜ?」
なのだろうか?

すでに知っていたことを、
その時期がはやくなるというだけで、
事実を受け入れがたく思うというのは、
人情としては理解できるけれど、
あらためて考えてみると、

不思議だ・・・・・。

死期がはやまることは、
悲しいのだろうか?
悔しいのだろうか?
恐ろしいのだろうか?

もっとやりたいことが残っているからということもあるかもしれない。
残してゆく家族が不憫でということもあるかもしれない。
こんな若くして死ぬなんて、思ってもいなかったので、
気が動転しているのかもしれない。
死ぬということを考えてもみなかったのかもしれない。


死なない人はいないのだ。
なのに、なぜ・・・・・?


若い頃から、ワタシは
こういうことばかり考えていたように思う。


もうひとつ考えていたことがある。


恋は儚い。
なぜ人は、儚い夢と知りつつ、
命を恋に捧げてしまうのかということへの疑問だ。

たとえば、失恋して、自ら死を選ぶ人を不思議に思ってきた。

どこかの本に、
「死とは浄化と再生である」
と考える思想もあるというのを読んだ時、
ナルホドと思った。
インドの神様の本だったかもしれない。ここでは深く触れないが。

失恋が原因の自ら命を絶つ行為は、
ふられて傷ついて、ボロボロになって惨めでも、
それでもあきらめきれない恋しい人への思いを、
死によって断ち切ると同時に、
再生への願いも含まれているのかもしれない。

だが、命と引きかえにするほどの思いなら、
あの世ではきっと神様も、
自分の願いを叶えてくれるだろうというような
計算も働いているのかもしれない。

残念ながら、昨今では、
失恋したら、相手を殺すことにより、
永遠に自分のものにしてしまおう的な
身勝手だとしか考えられないような
考え方の方が主流?なのかもしれないが。

さて。


一つのことを成し遂げることは難しい。
可能性を信じるだけじゃ、成し遂げられぬ。
時間という要素と、強い意志力が必要だ。

それらを駆使して努力を続けた結果、
成し遂げた事柄を、人々は評価する。

どんなことだって、
深い思いは、それが前向きであれば、きっと奇跡を生むだろうし、現実を変える可能性は無限大だろう。

だが、神経質な時代になって、
人の心は汚れ、
こうした当たり前のことが、
その可能性さえ信じきれなくなってきた。

負のエネルギーに負けないよう、
可能性を信じられるようになりたい。

自分の可能性を信じられない時は、願いもなく、
他人は他人であり、
心はすさみはじめているのだ。

そういう時、深刻に悩んでいる人々が、
ワタシの深い部分の目覚めを促してくれる。

ありがたい。

少し前、曇る心は成長の糧だった。
今は曇りなどいらない。

しっかりした足取りで歩いてゆけるなら、
曇りなど邪魔なだけである。