かっこよさの奥に潜む欲望とか偽善とか・・・・「私が棄・て・た女」や「麗しのサブリナ」他

築100年以上経っていても、
いい木が使ってあれば、
リノベによって、かえって価値は上がる。

時々、40~60年くらいの物件が、
レトロブームにあやかろうとするのか、
やたら高い価格設定の場合がある。
単なるオンボロと、アンティークなのとはちがうんですが・・・。
骨董品とただ古いだけのブツの差はどこにあるか。
微妙なとこですが。

昔から、ミッドセンチュリー家具は人気があったけれど、
細かく見てゆくと、その時代でも、
数年ごとに、デザインにビミョーな違いがある。
細かくいえないけどね。
・・・・・知らないんで。(^^;ゞ

たとえば、

麗しのサブリナ

高層ビルとモダンデザインの映画のように感じるワタシ。

オードリー出演の映画の中で、
これが最も美しい彼女が観られる映画だと思うけど、
実は女優より建物に目がゆく。
オードリーといっても、

お笑いの春日のいるオードリー

ではないですよ?
あ、わかってたか・・・・・(^。^;)

1960年代へのオマージュのような

恋は邪魔者」2003年制作

というレニー・ゼルウィガー
ユアン・マクレガーがコンビで出てる映画がある。
時代設定は、1962年のニューヨーク。

その時代に見えるように、すべて手作りで、当時を再現したのだそうだ。

正直、お手軽なラブ・ロマンスで、
なぜこれを大金かけてつくる必要があったのか?
町並みはCGである。
新しい技術と、古い映像手法の組み合わせ。

広い部屋の窓からのニューヨークの景色は、
布に描かれた絵である。
それをオシャレな手法と思うか、
ちゃちい・・・・と思うかどうかで、
この映画の評価は分かれるだろうな。
・・・・・ワタシには、少し疑問が残ったが、
演じてる人たちは楽し気である。

当時のデザインのドレスやコートや
インテリア。
主人公はピンクのスーツで登場。
彼女のリッチな部屋もピンクが意識して用いられている。
カワイイインテリア。

ユアンの部屋は、どでかいブルーのベッド。
たくさんのスイッチのひとつをひねると、
ソファがベッドになり、ダダダッと飛び出てきて、
違うスイッチをひねると、レコードに自動的に針が落ち、音楽が流れる。
ウーン、サブリナの映画に出てくるより、チョイ派手目・・・・なインテリアカモ。
(^ゝ^)映画ミテ確認シマシタ

まあ、月に行こうとしてた時代だから、ポップな感じですね。
全体的に。。

主人公レニーが

「女をものにするための部屋」

と評する1962年ならば最先端の
プレイボーイな独身男向けの凝った部屋の造り。

これを観て、
サブリナ役のオードリーを誘惑する
ライナス役のボガードの部屋も、
そういえば、スイッチで部屋の証明を
消したりつけたりしてたっけ、と思い出した。
インテリアは、ずっと機能的でシンプルだけど。
1954年作品なんだけどね。

1954年と、1962年では、たぶん微妙に
インテリアのテイストが違うように思う。
2本の映画だけでは、違いは詳しくはわからないんだけど。
(とくにサブリナはモノクロだから)

近代的な暮らし方の飽くなき発展は、
本能の解放された土壌に、
低次元の欲望や妄想がもとになって生まれてくるように思う。

洗練させ、キレイゴトをまぶして、
ケモノ性を隠す。
というか演出する。
それが流行となったり、文化となったりする。
映画を観てる時はあんまり考えないけど。

男目線で見れば、サブリナだって、
男性の目にかなうだけのセンスの良さで
自分を魅力的にしなかったなら、
身分違いの恋など実らない訳であろうに。
もともとサブリナが、魅力的になれるだけの素質がなければ、
映画のストーリーそのものが成立しないゾ。

そういうこともチラッと思うだけで、
とにかく、不可能な恋も努力次第で叶うんだという
希望だけが都合よく刻印されるだけだったりして・・・・。
映画を観ている女性たちは、いつの時代でも、
オードリーと自分を一体化していたりするんではないか?
そうできてしまう嫌みのない清楚さと、親しみを感じさせる可愛さがオードリーにはある。

「よかったら、俺のクルマに乗らないか」と、
かつてあきらめた片想いの男が、
最先端のモードに身を包んだ女性に変身したサブリナに声をかける。
男の目線で合格したら、選ぶのは、今度は女性の側である。

どうでもいい話だが、いいクルマには、裸の女性より、
ゴージャスな姿、特にドレス姿が似合うと思う。

ワタシが男で、地位が高くお金があったら、
かっこいいクルマに乗るパワーエリート(?。?)な俺様には、
誰もがゴージャスだと認めるような美女でなければ
絵にはならないんだよな、
自尊心が許さないんだよな~
てなもんだろうな(笑)

アタシが男だったら、嫌みなヤローになってたことでしょう(^^♪
つーか、アタシがたとえ男でも、
金持ち社会的地位高男君とは限らない訳だが・・・
むしろ、夢に挫折人生鬱太郎君のような気がする。
しかし人生鬱でも、
かっけークルマに誰もが羨む美女は乗せてーよな、
とは思うであろう。
それが男というものではないでしょうか?

ここでふと思い出すのが

「私が捨てた女」遠藤周作

である。
主人公の大学生吉岡は、ミツという
素朴で純真でミーハーな若い女の子と
ただ抱きたいだけで、半ば強引に一夜をともにするが、
朝後悔し、それっきり連絡を絶つ。

こんな田舎くさいつまらない女を、俺は相手にしたのか・・・・

というような後悔だったと思う。(ヒドい男だね~)

実はその相手は、聖女のような美しい魂を持つ女だったのだが、
その時の吉岡には、
ミツが、愚鈍で醜い姿にしか見えていなかった。

「なぜこんな醜い女を抱いてしまったのか」

吉岡は自分がいやになるような、
自尊心が傷ついた思いを味わったのであるが、
なんという身勝手な男性だろうかと、女性の読者は感じることだろう。

のちに就職し、
社長の娘である美しい清楚なお嬢さんと結婚した吉岡は、
ミツが聖女だと彼女の死後、実感する。

だがもし、ミツが死ななかったら、
あるいは、それほどの聖なる魂をミツが持っていなかったなら、
自分のミツへ抱いたあとの感情の罪深さに気づけたのだろうか。

吉岡が抱いた、汚い女を抱いてしまったと
吐き捨てるように思う感覚は、
男の欲望の身勝手さ、醜悪さを読者に刻印する。

この状況の吉岡の感情、そして偽善的な生き方に、
複雑な思いと共に、納得できる人々
(主に男性諸氏)もまたいるはずである。

男の誠実さをはかる踏み絵のようなこの小説は、
キリスト教徒であった作者が、
こういうようなことを、どこかに(対談だったか)書いていたような。

「あの題名は本当は【私が棄てたイエス】なんですよね」

と。

男女に関することでだけにかかわらず、
きれいごとで飾られたいっさいの
その奥にあるものは、
性の欲望が決して美しいとは限らないという、
人類の歴史が生み出した観念かもしれない。