“煩悩” 生を肯定してこその・・・・

世の中、煩悩はずいぶん嫌われている。
私は煩悩はいいものだと思っている。
これは、
私なりにだけれど、
いろんな苦悩を経て、こういう意見に至った。

亡き父のことで、未だ消えぬこだわりがある。
だが、
こだわりながらも淀まずに
なんとか前向きな生き方を探っている。

いろんなことが起きて、
迷ったり悩んだりしているけれども、
なんとか前向きさを保持してられるのは、

生の肯定体験

があったからだと思う。

花が、意志を持って、いきいき咲いているのを「みた」のだ。

言葉ではない、その生の根源に触れたような、
その時間は短かった。
ほんの一分にも満たない時間だったかもしれない。

だが、その体験が、私の見方を瞬間で変えたのである。

こうした言葉で表せない体験を、しばしば体験した私は、
社会というものに対して
懐疑的である。

なのに、社会に興味を持って生きていきたいと
思う
俗物的な面を持ってもいる。
これは、育った環境のせいだろうか。

善悪混在の精神的混濁世界に生きながら、
非常に神秘的な経験をしている。
霊的な経験といってもいいくらいだ。

それは結構長く続いた。
それが終わる頃、というか、同時にといえるだろうか、
いろんな新たな人間達との出会いがあった。

実際、
なんのために出会うんだろうかと思うが、
実は今も新しい出会いの中にいる。

終わってから、あの出会いは何だったんだろうかと
理解できる時がある。
終わったと言っても、頻繁に会うことが減るだけであるが。

出会いはいつでも、新鮮な驚きがある。

私は、何人かの友人に、

「あなたはピュアだ」

と言われた。
本当は、

汚れてますよー

どす黒いですよー

かもですが・・・・(;>▽<)

もう、こういう事言われても、
嬉しいとは思えない訳だけど・・・・

新しい出会いというものに新鮮になれるのは、

先入観なく

出会えるからだ。


自分が,

生きることを否定していないならば、

理解を超えた、人間の愚かさを示す出来事の数々に対して、
視野が狭くならないように、
多様な視座に立ってものをみようと心がける
のではないかと思うのだが、どうなのだろうか。

逆に、生きていることを根源において否定していたら、

いずれは、

煩悩というものに対して、

すさんだ観点から、
ゆがんだ感情から、
妬みや、
僻みや、
ゆき過ぎた被害者意識から、

善悪どちらであろうと、総合判断を下して、
溜飲を下げてるような
人間に陥ってしまうような気がする。

まとまらぬまま終わり。