あたしって変わり者?

性愛で悟る・・・・これも、詳しい説明が必要なんですが、
密教美術とか、建物などはおおらかなものだと思いますが。
いろんなサイトがあります。
カジュラーホ、エローラなど。
結構知っているものが多いですよ~

ところで。

私の考えとしては、
悟りを開いた者は、性的にも日常的に、精神的に深い部分まで、
性欲についてバランスよく思考や行為ができるようになっていなくては、

「私は悟っています」

などと言うべきではないと思う。
だいたい、そういうことを自分では言うものではないだろうけど。

悟りについて思う時──

深く何かをあきらめた人に、
言葉にできない何かの共感を感じることがある。
病で生きる時間がわずかになった人に感じることもある。

彼らは何かを捨てたのだ。

死まであとわずかという人が、
生きる意味について考えたくて、
貪るように本を読んでいた。

ひどく感動して、胸がつまった。


悟りよりすごいなと思った。

今この時を生きる姿は、
純粋無垢であって、どんな疑いの挟む余地もないのだ・・・・。

私は、あまり他人には言わないけれど、
(言うと、変わり者だと思われてしまうから)
実は、「死ぬ」という事実から、生きる意味とは何か、
どういう生き方をすればよいのかを考える。

かなり若い頃から、あちらの世界に、
意識は半分足を突っ込んでいる。

これをふつうだと思っていたが、
発想がおかしいらしい。
大都市に住むようになってから、そのことがわかってきた。

この世での価値観が、他人とかなり違い、発想が異質らしい。

ふつうのふりをしているけれど、
本当はかなり変人であるようだ。
だけど、私をよく知る人は、「ふつうって何? 一人一人違うでしょ」
と言う人や、
個性派の変わり者が多いので、
気にならないけれど。

あと、「私、変わってるんです」と言うと、
「何自慢してるの。大したことないじゃないの」と言われたりしたこともあるんで、
もう、こだわらないことにした。

実際、いろんな人がいるので、
大都市は楽ではある。

でも、
どう考えても、

もはや、

ふつうの人

のフリはできなくなっている。最近・・・・
まあ内面的な面だけど。

昔、

死は楽しみなのだという友達がいた。

私も実は同感♪

自分らしくあったほうが、
私は人間関係が広がる。

人間て、
出会いによっていろいろ起きる出来事、
感情のやりとりやなにかで、

自分自身の心が小さくなってしまう時があるじゃない?

そんな時、

自分らしくなれなくなってしまう気持ち、


多くの人が体験していると思います・・・・。

幸せになる前に、
自分らしさを取り戻しましょう・・・・

自分にうそをついて幸せになったところで、
次に進むことはできない。

幸せは形だけではないから。


いつ死んでも、悔いのない生き方を、

今、してますか。

いつも触れるものたちは
死んだら触れることができなくなります。

キッチンでお弁当をつくるお母さん。
幼い子ども達が入ってきます。
「お母さん。卵焼き入れてね!」
「お母さん、アンパンマンの顔つくってよ~」

死を前にしたお母さんが、

「死ぬって事は、
こうした日常とお別れしてゆくことなんだなと思うと、
悲しくて、せつなくて、やりきれません」

と言っていたことが、思い出される。

「最初は子ども達を置いてゆくことが気がかりだった。
だけど克服したの。

でも、
その次の段階で、乗り越えられなかったものは、
そうした何気ない日常とのお別れだった」

「これは執着よ」


この人は、この世にもういないが、
何度も、死というものを考える時、
思い出す話である。


心を裸にしてしまうと、
そんな話も日常的にできるけど、

ふつうは、死を遠くに感じているフリをしないと
ちょっとおかしく思われてしまうこともあるので

物足りない。

つーか、
最近、気持ちが解放してもいい雰囲気にはなってきた。


死は楽しみな出来事ですよ!


なんて、やっぱり顰蹙モノ????

(^^;)


”””””””””””””””””

立川流の記事で、みんな引いたろうなあ・・・・・

どう記事にするか、迷ったもんなあ。

タントリズムラジニーシ和尚が取り入れてたはずですが、
和尚にはビートルズが傾倒してたね。

あ、では!