後醍醐天皇といえば・・・・ワタシ的には「真言密教 立川流」になってしまうのだっ!
当然、
「立川流」はエロい☆
公家から民衆の手に密教がわたることが許されたきっかけなんですよん、
と言われたって、
密教一派など、
いくら天皇家で国策とされそうな時代があったにしろ、
と言われたって、
処女を物のように扱い、
ドクロに精液、愛液を塗りたくり、
エッチしまくることで
神仏との合一を果たそうなどという密教一派など、
いくら天皇家で国策とされそうな時代があったにしろ、
滅び去って本当によかったと思うわけだが、
いかにも本来の悟りのありようであるかのような
歪んだニュアンスを
感じる人々もいるのではないだろうか。
歪んだニュアンスを
感じる人々もいるのではないだろうか。
おぞましい。
ひたすらおぞましい。そう感じるわけだが、
この「立川流」を開いた人
仁寛
は、純粋かつまじめな思いから、男女の混合を
「愛欲そのものを仏の慈悲の世界まで高めなくてはならない」
(「邪教・立川流」真鍋俊照著 p,177 ちくま学芸文庫2002年刊)
という重要な問題提起があったようだと考える人もいる。宗教が挫折するのは、
人間社会に益をもたらすかどうか、時代の求めるものかそうでないか、
時代の通念が、この教えに対する純正な理解力を有しているかどうか、
教えが不十分な説明で終わっていないか、
研究されたり語られたりするに見合う内容に至っていない、
などいろんな事情があるのだろうけれど、
立 川流などという
妖しげなものがよくはじめだけでも受け入れられてたものだと思う。
立 川流などという
妖しげなものがよくはじめだけでも受け入れられてたものだと思う。
派によって違うようであるが、乱交であれ、
1対1であれ、なぜ女性を抱き、
霊力を得る、悟りに至るなどという
邪悪な発想が生まれたのか。
1対1であれ、なぜ女性を抱き、
霊力を得る、悟りに至るなどという
邪悪な発想が生まれたのか。
後に
「こんなん出ましたけど~」てな
インドあたりでは昔たぶん8世紀にはあったんだろうし、
今じゃ、哲学の一種であろうし、あえて隠すほどの教えでもない気がする。
ちゃんと先入観持たずに読んでみれば、
始まりは真摯なものであったかもしれないとわかるのだ。
邪教
とされて忌み嫌われた「立川流」は、京都、醍醐寺に住していた左大臣アジャリ様であった仁寛(~1114)がはじめたらしい。
世は平安時代末期、空海(774~835)の時代より300年も後のこと。
空海があえて目をそらした?ような部分のスキを突くように、「こんなん出ましたけど~」てな
イキナリ何だよアンタは!
的なカンジがするけど、インドあたりでは昔たぶん8世紀にはあったんだろうし、
今じゃ、哲学の一種であろうし、あえて隠すほどの教えでもない気がする。
きちんと立川流について書かれた本を読むとであるが。
そう!ちゃんと先入観持たずに読んでみれば、
始まりは真摯なものであったかもしれないとわかるのだ。
仁寛がこの男女和合を仏の境地にナンタラしようという
教えを広めようというきっかけってなんなのだ?
天皇の跡継ぎ問題に巻き込まれて、島流しになったんですね、
で、そこで立川出身の陰陽師と出会い・・・・と書いて終わったなら、
これまでの関連したいろんなネットの記載と同様になってしまうんだよね・・・・。
教えを広めようというきっかけってなんなのだ?
そこが、もっとも興味をひくわけだけれど、
お兄さんとともに華々しい将来有望な僧だった彼は、天皇の跡継ぎ問題に巻き込まれて、島流しになったんですね、
で、そこで立川出身の陰陽師と出会い・・・・と書いて終わったなら、
これまでの関連したいろんなネットの記載と同様になってしまうんだよね・・・・。
つまらないよ~
公家のお姫様や奥様らとのスキャンダルが渦巻いていたらしい?です。
仁寛さんは、こうしたグチャグチャのさなかにいて、
人生をどう感じていたんでしょうか。
楽しい人生、愉快な青春だったんではないでしょうか。
将来は天皇だと有望だった輔仁親王の護持僧。
ゆくゆくは天皇のお伽の付き添い役、
病気の加持祈祷役もつとめる高位の地位です。
藤原氏を遠ざける戦略が天皇家にあったようで、
代々の遺言は守られず、
輔仁親王は・・・・ついてない、仁寛もついてなかった。
5歳で鳥羽天皇即位6年目の1113年十月、仁寛の身に
天皇殺害疑惑、呪詛の嫌疑がかけられる。
人生をどう感じていたんでしょうか。
空しい
とは感じてなかったと思うなあ。楽しい人生、愉快な青春だったんではないでしょうか。
将来は天皇だと有望だった輔仁親王の護持僧。
ゆくゆくは天皇のお伽の付き添い役、
病気の加持祈祷役もつとめる高位の地位です。
でも、人生そううまくはいかない。
後三条天皇の子、輔仁親王さんは天皇になれなかった。藤原氏を遠ざける戦略が天皇家にあったようで、
代々の遺言は守られず、
輔仁親王は・・・・ついてない、仁寛もついてなかった。
5歳で鳥羽天皇即位6年目の1113年十月、仁寛の身に
天皇殺害疑惑、呪詛の嫌疑がかけられる。
11月伊豆に流され、翌年自害して果てた仁寛。
宮廷の立 川流の流行は一時的な物であった。室町幕府成立とともに、立 川流は異端として弾圧されるようになった。
文観は後醍醐天皇に従って吉野に行き、そこで足利尊氏を呪ったが、その効果はあらわれなかった。
(「「魔」の日本古代遺跡」 武光誠著 p,182 PHP研究所1997刊)中央から立川流は消えていった。
だが、庶民のあいだには、室町時代末まで乱交が行われていたという。
この人にはこの人の立 川流の
解釈があるからだ。
解釈があるからだ。
ここで書いておきたいのは、
この宗教の始まりのことと、
決してはじめは卑猥なものを目指してはいなかったこと、
くらいですかね。
真鍋さんは、33ページでこういってます。
この宗教の始まりのことと、
決してはじめは卑猥なものを目指してはいなかったこと、
くらいですかね。
真鍋さんは、33ページでこういってます。
【立 川流は陰陽思想を中軸にすえながら、正しい密教の教理(教えと思想)を曲解したものといわれている。しかも阿と吽、理と智という対立概念は究極のところ男女両性(両根)を意味するものと見なし、その両方には機能があると見なすことによって理智不二、金胎不二という密教教義の根本を男女二根交会であると結論づけている。】
文観はダキニ天まつってたみたいだし。
(加筆修正何度もしましたぁ~(ー▽ー;)