後醍醐天皇といえば・・・・ワタシ的には「真言密教 立川流」になってしまうのだっ!

当然、

立川流」はエロい☆


公家から民衆の手に密教がわたることが許されたきっかけなんですよん、
と言われたって、

処女を物のように扱い、

ドクロに精液、愛液を塗りたくり、

エッチしまくることで

神仏との合一を果たそうなどという
密教一派など、
いくら天皇家で国策とされそうな時代があったにしろ、

滅び去って本当によかったと思うわけだが、


こういったインド哲学の精神史の一経過のような儀式宗教様式が、
仏教のあらゆる解釈が実験的になされた時代の
残骸が、

いかにも本来の悟りのありようであるかのような
歪んだニュアンスを
感じる人々もいるのではないだろうか。

殺人までするに至った某新興宗教などは、
まさにそのニュアンスを実践に変えた集団であった。

タントリズム

タントリズムは仏教ではないが、
インドに古くからある思想であるが、
精神原理(プルシャ)と物質原理(プラクリティ)を混合させて、
真なる実在の境地を生じさせるという考え。

欲望を全肯定し、今を解脱の場とし、小さな自己を否定することによって得る、
歓喜、至福の境地を引き出すというもので、

今では、インド思想の一種である。

ここからヨガや瞑想や仏教が生まれ

現在では、健康な心身づくりや、
コミュニケーションの作法として、思想を生かす場合もある。

この今に生きる思想が、たぶん、立 川流に流れていたにちがいないが、
うーん、もうこのあたりはとばします。

理趣経

についても。
別の項で書くかもしれませんが・・・・。

悟り

に至る道としては、
知で悟りを得ることができるとしていた人々もいたように、
このタントリズムも道の一つとでも捉えているのかもしれないが。

おぞましい。

ひたすらおぞましい。
そう感じるわけだが、
この「立川流」を開いた人

仁寛

は、
純粋かつまじめな思いから、男女の混合を

「愛欲そのものを仏の慈悲の世界まで高めなくてはならない」

(「邪教立川流」真鍋俊照著 p,177  ちくま学芸文庫2002年刊)

という重要な問題提起があったようだと考える人もいる。

宗教が挫折するのは、

人間社会に益をもたらすかどうか、
時代の求めるものかそうでないか、
時代の通念が、この教えに対する純正な理解力を有しているかどうか、
教えが不十分な説明で終わっていないか、
研究されたり語られたりするに見合う内容に至っていない、

などいろんな事情があるのだろうけれど、
立 川流などという
妖しげなものがよくはじめだけでも受け入れられてたものだと思う。

タントリズムならば、

選ばれる女性は、極端にいえば、
見目麗しい当然処女のティーン・エイジャーが望ましいとか。

派によって違うようであるが、乱交であれ、
1対1であれ、なぜ女性を抱き、
霊力を得る、悟りに至るなどという
邪悪な発想が生まれたのか。

あげまん

という女性が男の出世運を上げてくれるという言い回しがある。
こういった女性と寝て、運を上げるという考え方は、どこから来てるのかな。

さて。


川流ははじめはともかく、次第におぞましい儀式的なものになってゆく。こういった細部を読んでゆくと、
男が己の悟りを果たすため、
手段を選ばないという

欲望、煩悩

を動機に感じるだけである。

後に

邪教

とされて忌み嫌われた「立川流」は、

京都、醍醐寺に住していた左大臣アジャリ様であった仁寛(~1114)がはじめたらしい。

世は平安時代末期、

空海(774~835)の時代より300年も後のこと。

空海があえて目をそらした?ような部分のスキを突くように、
「こんなん出ましたけど~」てな

イキナリ何だよアンタは!

的なカンジがするけど、
インドあたりでは昔たぶん8世紀にはあったんだろうし、
今じゃ、哲学の一種であろうし、あえて隠すほどの教えでもない気がする。

きちんと立川流について書かれた本を読むとであるが。

そう!
ちゃんと先入観持たずに読んでみれば、
始まりは真摯なものであったかもしれないとわかるのだ。

だが、

真言密教のなかで秘儀化するにつれ
邪教のレッテルを貼られ、
異端視され、弾劾されていった。
(「邪教立川流」参照)

仁寛がこの男女和合を仏の境地にナンタラしようという
教えを広めようというきっかけってなんなのだ?

そこが、もっとも興味をひくわけだけれど、

お兄さんとともに華々しい将来有望な僧だった彼は、
天皇の跡継ぎ問題に巻き込まれて、島流しになったんですね、
で、そこで立川出身の陰陽師と出会い・・・・と書いて終わったなら、
これまでの関連したいろんなネットの記載と同様になってしまうんだよね・・・・。

つまらないよ~


どうもこの腹違いのお兄さん、

勝覚

この人、たぶんモテモテだったのではないでしょうかと思われます。

公家のお姫様や奥様らとのスキャンダルが渦巻いていたらしい?です。

仁寛さんは、こうしたグチャグチャのさなかにいて、
人生をどう感じていたんでしょうか。

空しい

とは感じてなかったと思うなあ。
楽しい人生、愉快な青春だったんではないでしょうか。
将来は天皇だと有望だった輔仁親王の護持僧。
ゆくゆくは天皇のお伽の付き添い役、
病気の加持祈祷役もつとめる高位の地位です。

でも、人生そううまくはいかない。

後三条天皇の子、輔仁親王さんは天皇になれなかった。
藤原氏を遠ざける戦略が天皇家にあったようで、
代々の遺言は守られず、
輔仁親王は・・・・ついてない、仁寛もついてなかった。
5歳で鳥羽天皇即位6年目の1113年十月、仁寛の身に
天皇殺害疑惑、呪詛の嫌疑がかけられる。

11月伊豆に流され、翌年自害して果てた仁寛。


その数ヶ月のうちに、葛城山(乳房山)に籠もり、
護摩を修し、一人の陰陽師に授けた真言秘密の行。

すさまじ出会いだと思うわけですが・・・・。
数ヶ月しかいなかったのに、後世モノスゴイ影響力のあった

立 川流

が出来上がったんだからね!!

仁寛とその兄さん勝覚は、村上源氏の流れをくんでおり、超おぼっちゃまだった・・・・
ややこしいんですが、
村上天皇の流れというものもなんかいろいろあるなあ。

書ききれないです。

山折哲雄さんの引用文がありますが、
書店で、真鍋さんの文庫本を買うか、
p,27-p,30を立ち読みしてください。

時代は下り、

後に後醍醐天皇に立 川流をすすめた文観。

鎌倉幕府が倒れた裏側に、この妖しいまでのエロ密教が存在していて、

あわや国教に・・・・

とまで勢いは続くかと思われた。
が!

宮廷の立 川流の流行は一時的な物であった。室町幕府成立とともに、立 川流は異端として弾圧されるようになった。

文観は後醍醐天皇に従って吉野に行き、そこで足利尊氏を呪ったが、その効果はあらわれなかった。

(「「魔」の日本古代遺跡」 武光誠著 p,182  PHP研究所1997刊)
中央から立川流は消えていった。
だが、庶民のあいだには、室町時代末まで乱交が行われていたという。

うーん、この解釈は大雑把すぎると思うけど。

文観については、
また、あらためて書きたいと思っている。

この人にはこの人の立 川流の
解釈があるからだ。

ここで書いておきたいのは、
この宗教の始まりのことと、
決してはじめは卑猥なものを目指してはいなかったこと、
くらいですかね。
真鍋さんは、33ページでこういってます。

【立 川流は陰陽思想を中軸にすえながら、正しい密教の教理(教えと思想)を曲解したものといわれている。しかも阿と吽、理と智という対立概念は究極のところ男女両性(両根)を意味するものと見なし、その両方には機能があると見なすことによって理智不二、金胎不二という密教教義の根本を男女二根交会であると結論づけている。】


性行為→煩悩即菩提=即身成仏の境地

どうなんでしょ? コレ・・・・・

=対立概念の融合

説もある。

この立川流の影響は、稲荷信仰や、ダキニ天などと絡まって、江戸時代の庶民の文化にも、いい意味で影響を及ぼしていったのではないかと、
あちこちの本ナナメ読みして思うんですが・・・・

文観はダキニ天まつってたみたいだし。

それは後の話としときましょう☆

まとめようがないまま、終わり。

(加筆修正何度もしましたぁ~(ー▽ー;)