どちらがスキャンダラスでグロテスク?

私の趣味は創作である。
最近では具体的に創作する精神的余裕がないけどね。

私の書きたい物語は恋愛である。
書きたいというより、もはや
愛着使用のすりきれた古着といった風情のテーマではあるが。

さて。

恋にはエネルギーが要る。
それなりの必然でもなければ、
運命的な出会いは起きないんである。

たとえば、家庭環境という因子。

父親不在、母親不在。
暴力による圧迫があったり、
アルコール過剰摂取の家族がいたり、
借金で進学もままならなかったり、
親に愛されていない自覚があったり、
兄弟姉妹比較されて、自分はミソッカスだったり。

食後なので、脳に血がゆきわたらないんで、このくらいしか思い浮かばんけども(-.-;)

そういう家庭環境をもって、
恋愛はその特徴を形づけるんではないだろうか
と思っている。

だいたい、
人間なんて、生まれた環境からそうそう自由にはなれるもんじゃないのだ。

ワタシも大いに冒険しようとハイティーンの頃は思っていた。

だが、実際には人間関係でつまづいて、何年も悩んでしまい、
しまいには宗教的な発想に追いつめられて、
すべてを捨てて、1から人生をやり直した。

めんどくさくなるというよりは、
自信がないからだった。

あるいは、無知だからか

あるいは

人生経験が少なすぎて
自分を持て余していたのだった。

出会いは孤独を私に運んできた。
誰も教えなかった孤独は

まるでマルグリット・デュラス原作の
映画の重要な場面で流れる
ショパンの音楽のようだった。

そう。
音楽で泣いたことがあると言えるなら、
そんな感じだ。

本当に愛する人とのセックスで充足したことがないという不幸──


こうした不運に泣いたことがあるだろうか。

デュラスの自伝的映画で、
フランスに向かう船の中で
少女(デュラス)が泣いた涙の理由は

それとは違うけれど、

不条理に苦悩する涙であり、
汚れなき多情、淫乱へのカタルシスであるとともに、
大人への通過儀礼のようなものである。

誰もが人生のどこかで経験し、
その後、大人の階段を上る。

ずるさを学び、計算をすることを覚え、覚悟というものを知る。

もはや、

虫のように蠢く自分が
哀れみや同情を乞わねばならぬほど
惨めでも、不幸でもないと認識する瞬間であるともいえるのかもしれない。

ほとんどの場合、苦悩している時の
心は

思いこみと決めつけとレッテル張りで占有されているものである。

自分の内的なゴマカシや自己欺瞞や自己保身が
客観的に距離を置いて認められるようにならない限り、

表向き解決したように見えても、
同じ事は繰り返し起きるだろう。

まあ…


若い頃の苦悩というものは哀しいけれども、

なんて美しくて哀愁に満ちているんだろう。

それに比べて、
年をとってからの性愛にまつわる苦悩というものは

なんというグロテスクさであることか!!



若い時期に悩むとすれば、ひどく悲しいなと感じた、

セックスを愛する人と共有できないという告白や、

セックスで真に愛する人との間にオーガズムを感じられないという告白は、

これって
年をとってからの悩みだとすれば
グロテスクなことなんだろうか?

セックスで騎乗位の体験がないという告白と
どちらがグロテスクなんでしょうか!?

暗転



いつものようになにが書きたいんだかわからないまま、
終わります、ハイ☆

(修正しました)