ネットに良い可能性などない…

ブログであろうとも、心にもないことを書けないワタシである。

過去になんらかの出来事があったとしても、
当時なにを思っていたとしても、
自分の気持ちが
クルクル
気まぐれで始終変わることをよ~くわかっているため、

また、自分の軽薄さも自覚しているため

個人への印象の結論は
あるていど時間経過してから
出すようにしている。

それまでは棚上げである。

結論までに
半年かかる時もあれば、
3年かかることもある。
へたすれば10年、一生かかるかも…。

たとえばの話だが
誰かの問題や事件を通してその個人と出会わねばならないというのって

偏見や先入観でしか、その人を見ることはできないわけで……

ネットでいろいろ思うようになってから
特にそういったことを考えるようになった。

しょせんブログなど、
ネットの文字列の狭い混沌の海の中での
はきだめにすぎないとワタシは思っているが…

それに沿って、

このブログもワタシは「廃墟」だと思っている。

ネットでの「シーランド公国」「軍艦島」とかたとえて、
1人で楽しんでいたりして。


ようやく、
TVでネットで個人情報を教えてはならないと広告が流れ出したが
今さらという感じである。

たとえば
ネットで子どもの顔を平気で晒している親がいるが、
名前を晒すほうが、まだましではないかと思ったことがある。

もちろん名前など、晒すのはあってはならない。

仕事上や、
つきあい上の都合や
公共的な意味を持たせる場合、
別だろうけど。

子どもを誘拐されても平気なんだろうか。
ご丁寧に幼稚園の名称、所在地、写真まで貼って、
来て下さいといわんばかりのブログもある。

些細な情報も自分でフォローできる分には問題がないと思うが
家族の情報など
近所の写真なども
使っている鉄道も
出さぬが花であるように思う。

また、
思うのは、ブログのテーマや方向性についてである。

最近、雑貨好きがつい出てしまっているが、

本来ここは
自分では、哲学ブログとか、建築ブログにしたいと思っていた。

自分がお馬鹿な分
思慮深いブログにしたいと思っていた。

思っているだけだけど、
願望としてはそうなんだよ~~

所詮、ケーハク、お馬鹿は隠しきれないようです(涙)

テーマが明確なら、他の要素は出さないほうがわかりやすいハズ。

だけど、
なんでもありーなブログになっておりやすね☆

血液型でさえ記載すべきではないと思っている。

ブログは実生活ではない。

ブログ

は日常を伝える通信手段

であり、

日頃の自分の内部を伝える手段

であり、

物品の価値や性能や機能を伝えるための手段にすぎない

のではないだろうか。

ツールにすぎないそれを、生身だと錯覚して
そう、まさに、
生身の肉体の発する音声のごとくに錯覚して
曖昧の世界に陥る危険がネットにはあるのではないだろうか。


にもかかわらず、
人はそういう危険を踏み越えて、いや踏み抜いて
ネットで日常的に会話しているみたいに見える。

というか、
ワタシもそうしている訳だが…。


ワタシのブログはフィクションである。
初めから終わりまで、本当のことはないという前提である。

記事の情報も、自己責任で読み、
鵜呑みにして欲しくない。


ネットは良い可能性よりも
良くない可能性の方が大きいような気がするから。

だけど、ネットなしでは語れない社会になってきて、
ネットの良い可能性について、
誰もが模索しなければならない時代でもある訳ですね。

それでも、
思うのは、

・寂しさからネットをしない。
・ワンテーマでブログを始めたら、ピークに来たら終えること。
(たとえばウツを治したくてだったら、治ったらブログを閉じるとか)
・自分の個人的価値の押しつけはしないこと。
・無理をしない。

今、アタマに浮かぶのがこのくらい。

ネットでは、日常以上に他者への配慮が重要になると思う。

それが面倒で、
またブログを主とした生活ではないため、
あえて、ここは不親切なブログという前置きになっているが、

本来、かなり神経を要する場がネット社会だと思っている。

常に、ネットから離れて、自分を客観的に見られるようにしておかないと。

危険は自己の内部からやってくるのだ。