この世に天国などない…

ー混乱している。
何もかもにだ。

本当に…
ワタシは大人なのか?



大人になるってことは
あきらめを知ることであったり、

他人への共感をできるようになったり、

我が子への命にかえても尽くしてやりたい無償の愛を持つことだったり、

人間関係が円満にゆくように、
相手の立場に立ってものごとを進めてゆける寛容さを持てることであったり、

嫌悪していた人間でさえ、情で許せることであったり、


頭にくることを言われても、
すぐカッとしないだけの理性を働かせられることであったり、

等々、他にまだまだいろいろあるだろう。

大人になるということは、ゆがんだり
すさんだり
ずるくなったり
計算高くなったりするということとは限らないのだ。

まっすぐにものごとを見ることのできる眼差しで、

良いものと悪しきものを正しく判断できることや

子どものように純粋な心で
周囲の人々と関わってゆける明るさを持っていることや

何度も失敗と挫折を繰り返しながらも
誰のせいにもしないで
けれども、誰が心正しく、誰が邪悪かを
怜悧な視点できちんと認識できて、

決して彼らを侮らず
油断もしないで

すべてを、最終的には自分の責任であると思えるだけの
思慮深さに自己を導けるだけの

勇気と強さと観察眼と向上心

そして信仰心にまで匹敵する
自己の内部を深く徹底検証する生への探求心を持続させていること、

それが大人になることであってもいいだろう──


気がつくと、
人は自分を守るために、
自分の正しさの証拠集めに躍起になり、
他人をコレクションしはじめる。

時に
巧妙に自分ですらいつわるような罠を
自分と自分の人間関係に張り巡らす。

たとえば……

あなたが私に共感してくれれば、私もあなたに共感しましょう。



その人間関係は正しい人間関係であろうか。

お互い取引しているような、
物々交換しているような。

ギブ&テイクではあるが、背景は卑屈さの契約関係であって

暗闇で蠢く虫同士の
哀れみ合いによる助け合いでしかないように思える。

そんなに傷つくのが怖いのか!?


何をいったい守ろうっていうのか。

ちっぽけなプライドか?
惨めな過去を否定したいのか?
自分だけは完璧でありたいのか?

どうしても世間に認められる自分でなくてはならないのか?

世間が自分を認めてるのに、
自分を認めなかった身内はどうかしているとでもいうのか?

自分がおかしいことだってあるのだと考えてみたことがあるのか?

この世には、あなたにとっての天国なんて無いのだ。


この世にあるのは、
生々しい欲望と
不完全燃焼で欲求不満な感情と
孔雀のように自分を飾りたてたいという自己顕示欲と
破壊衝動と
本能と
文化的活動のローテーションと

──あといったい何があるだろうか。

ともかくいろいろ…ある。

天国なんかない。

天国にいるべき自分の邪魔した奴らは邪悪だ。

という考えは間違っている。

道を踏み違えるな。

天国にできなかった自分を悔やむな。

人はそれぞれ修行のテーマが違うのであり、
(文化の違いかも)

旅人同士がいろんな役割を演じ合って、出会っているだけであると思う。

愛を学べばいいのだ。

迷いの森はある地点までは隣人が共にいてくれるけれども、
テーマが見えてきたら、そこからは1人の道である。

闇夜を照らす明かりは、
実は隣人の灯だったりする。

多くの迷える者がいて、
彼らは自分から落ちた闇の世界で
闇にいることにさえ気づけないで
感情は荒れ放題にまかせて
外見だけを取り繕う。

なんてみすぼらしさだろうか……


彼らには、自分たちを飾る観客や取り巻きが必要なのだ。

そして、場は次第に一色に染まってゆくだろう。

自己顕示欲と
独占欲と
地位欲
名誉欲

心ですら、物質的に解釈され、
そこにはもはや汚れなき動機で
生きる者はいないだろう。


ウチなる必然的動機で生きるという本来の霊的生き方が

真の人間の原色の生き方だと思う私は

じゃあそのように生きているかと尋ねられたら…

「はい。たぶん…」

と答えることだろう。

すべてはそこに向かうため。

新月への願いも、人生もそこに向かうためにあった…と思っている。

モタモタしようが
グダグダしようが

牛の歩みのようであろうがカタツムリの微々たる歩みであろうが
亀のノロマな歩みであろうが

すべては
一つのインスピレーションから始まっているのだ。

神様は人間に混乱と秩序を与えたもうた。

自然児の私がどうやってあらたな秩序を生み出してゆくのだろうか。

楽しみであり、震えるような経験になるであろう。

【美とは痙攣である】


そう言ったのはだれだったか。
ブルトンかな?

ずっとこの言葉の意味を何十年も考え続けている。

(修正しました)