憎悪がないというのではない ヒュー・プレイサー 北山修訳

悪、事故、欠陥、卑劣さ、憎悪などがないというのではない。ただもっと広い見方もあるということ。悪は部分的なもの。完全は全体にある。不一致は近よりすぎた見方である。そして、ぼくにだって広い見方を選ぶことができる──いつもそうすべきだと言うのではない──いつでもできることだと言っているのだ。



人間は汚れのないものを考えることができる。それは一点のくもりもない大空へと舞いあがっていく。ぼくがそれを取りだしてしげしげとながめてみることもできる。知識と思想は本にぴったりというわけだ。ぼくの先にたってあの狭い道を案内してくれる。朝になっても、そいつはそこにいる。知識や思想はゆがんでいないのだ──

けれども、ぼくたちのいる世界はまがりくねっている。そして、このどうしようもない人間というやつをぼくは友だちにしてしまった。

さあ、一緒に歩いていこうか、ぬかるみのなかを──


「ぼく自身のノオト」P.200~P.201より


人文書院1979年刊