(4)カタカムナについて 「サヌキ」「アワ」の土地名はカタカムナ人の物理用語?……異端科学と超認識

●『謎のカタカムナ文明』
阿基米得(あきよねと)著
徳間書店1981年刊
(p.24~27より)


楢崎皐月は、カタカムナ文献(カタカムナノウタヒ)を
20夜で80個の渦巻きを写し終えた。
おさらいになるが、満州吉林で会った蘆有三(ラウサン)という男から
老子経古伝、日本にアシヤ族という、高度の文明を持つ
種族の話を聞いていた。

そして写し取ったカタカムナ文献を解読していった結果

楢崎はその内容が

《超古代の日本の地に棲み高度な文明を築いた人類が、
自分たちの把握した宇宙観あるいはサトリ(哲理)を
歌の形にした科学書であり、そこに日本語および日本文化の
原型ともいうべきものがあったことが明らかになったのだという。
そして楢崎はこの太古の根本人種を「カタカムナ人」とよんだ。》


著者も書いているが、本が出版された33年前は
異端科学であり、オカルト・サイエンスだったに違いない。
いや、今でもやはりまだまだオカルト的な扱いかもしれないが…

楢崎が「カタカムナ人」とよぶ人種の高度な科学の概要は
楢崎の後継者、宇野多美恵という人が主催する
「相似象」という機関誌に発表されていた。

以前、ネットで関連記事を読んだ時も今も
カタカムナ関連はさっぱり理解不能だが

ホツマツタヱ」をちょこちょこナナメ読みだガ読み出した上で言うと
何となくだが、似ているような似ていないような……
カタカムナ文字まで手が回らないが、いずれ取り組みたいす…

そういえば。

カタカムナ的な考え方が商品化されたもので
地下に炭素を埋没する方法とかあった。
「幽霊の出やすい家は、炭素を地下に埋めればよい」
というようなくらいしかわからない。

とにかく。

楢崎によれば、カタカムナ人は高度な直感力を持っていた。

カタカムナ人は現象背後の“潜象”の作用を共振的に知覚し、
それが彼らを「カタカムナノサトリ」とよばれる、
われわれの知らない自然認識へと導いた。》

《楢崎はさらに「アメノミナカヌシ」や「クニトコタチ」をはじめ、
もろもろの神名、また「サヌキ」「アワ」などの国名は、
実は神名や国名などではなくて、
カタカムナ人の「物理」の用語から出た名称であるという。》


ええ~~っ

なんと、この間記事にした
「サヌキ」「アワ」は物理の用語で(それは書いた)
それが国名になったらしい

目からウロコが飛び出したざんす

しかも、神の名前も、カタカムナ人の「物理用語」ですと

頭がグルングルンになりそうっすねっ

カタカムナ文献が関連した文章は
いちいちわかりにくい事が多いのだが…
たぶん考えた事もない発想ばかりだからだろうな☆

カタカムナ人は、霊感の発達により超科学的な認識へと
到達した訳てはないようだ。

我々とは異質な方向に発展した
超科学の痕跡を残した人達なのではあるまいか?

カタカムナ的悟りがどのようなものかは知らないけれど

書いてある内容に沿えば、たとえば霊能者のチャネリング

そうした霊能力や超能力では
カタカムナノサトリ」のような
超科学的な認識は生み出せないのだと著者は言う。

経験から、確かにチャネリングでいえば
霊的な側からの通信で、意識は一瞬飛躍する場合があるが
すぐにモトに戻る。余韻はケースバイケース。

通信は「外界(ソト)」からもたらされたのであり
時に至福感を覚える現象でもある、波動が変わるからだ。

余韻が長く続く「ウチ・胸のあたり」から来る例とか、
何年かにわたる影響を残す「啓示」的なものとなると
まったく別なものになるけれど、
チャネリングの多くは内なる「ソト」から来る感じだ。

ソトからの場合、確かに霊的現象に関しては
自分なりの解釈が始まるかも。

だが、「カタカムナノサトリ」にはそれは無いのだという。

要するに、カタカムナ的な悟りとは
人間物質そのものの変容の事ではないだろうか?

もしそうならこれは、私は信じていないが
いわゆる「アセンション」の人間の身体における
アセンション現象の一例になりうる例かもしれない。


最後に長いが、まとめとして
p.26~27の以下の箇所を書き出してみる。

《もっとも、カタカムナ人がそのような超感覚をもっていた
という想定自体は誤りではない。
だがいくら五感を超えた超感覚があっても、
それ自体では高度な認識は絶対に獲得しえない。

このことは、いわゆる超能力者とよばれる人々を観察すれば
充分に明らかなことである。
彼らの大部分はペテン師であるが、残りは確かに
われわれにはない超常的な能力をもっているようではある。
だが、彼らに共通して見受けられることは、
彼らの語る内容には恣意的な解釈と自己顕示欲が
どうしようもないほど入り混じっているということである。

このような事実は、超感覚的知覚それ自体では
カタカムナノサトリ>とよばれるような一定の認識を
生み出し得ないことを暗示している。

楢崎はこのような誤解をさけるため、
<直感知性>という言葉を使っている。
これはカタカムナ人が、超感覚的知覚に加えて
高度の抽象的思惟力をもっていることを意味する。
要するに、カタカムナ人においては、
後代の人間とは知覚、思惟、意識の回路そのものが
まったく異なっていた、と考えてもらってさしつかえない。》


いゃー難しい~

というか、文章がややこしいというか…

だが、難解なカタカムナ理解のために、
楢崎は、「相似象」という入り口を用意してくれているという。

現代の我々は、

カタカムナ人のような超感覚によって直接に
現象の背後にある潜象と共振する回路は切断されている。》

だが、現象に表れる相似性から
ほのかに捉える事は可能だという。

その相似象のわかりやすい例を書いた

第2章のタイトルは
「風景工学はエコロジーを超える」というもので

「イヤシロチ・ケカレチ」などの説明も
相似象のわかりやすい一例のようである。


書いてきて、ふと思った。
一部の方々を除くと、『カタカムナ文献』なんて
未知そのものの方々が多いのでは?

竹内文献』のほうが知られてるかもね(ボソ)

まあ、それでもボチボチ読み進めるよん☆
ヒマな方はお付き合い下され