(2)『プレイボーイ』の『…日本会議の正体だ!』の記事欲求不満!……『戦後の右翼勢力』で概観
ひたすら憲法改正に向かう日本会議。
『週刊プレイボーイ』によって、『日本会議の研究』の中枢が、
新興宗教「生長の家」出身者ばかりだということを知ったが、
ビックリしなかった自分自身に、今は『なぜ?』と自問している。
思うに、新興宗教の流行っている時期が、私の青春時代。
高橋信次の本に出会った頃と、まったく同時期に真光教団に興味を持った。
真光の彼らは、公園で、真光のパフォーマンスをやっていた。
たまたま、通りかかった私は興味を持った。
親に内緒で、15000円の御みたまとやらを得た。
全くの興味本位であった。
高橋信次の本『悪霊』も、同じように興味本位で買った。
買った時期は、悪霊にやられていた訳ではなかったが。
(後に役に立った)
時は新興宗教の流行っていた頃で、コミック評論本と
スピリチュアルな本を一緒に購入するのが自然な時代だった。
当時の私の知人のひとりが、「生長の家」に熱心だった。
彼女は、かなりリッチな美人。
「生長の家」にしろ、宗教は、信じても人を幸せにはしないよ、と言った覚えがある。
そうした新興宗教でも救われない重いカルマの問題に悩んでいた私は、
新興宗教なんぞ、気晴らしでしかなかった。
高橋信次は、私からみて、今でも本物の宗教家だが、
彼の残した宗教団体は、彼の言っている事とは違っているため、私は根本的に受け入れていない。
『宗教でメシを食うな』が、高橋信次の真骨頂であったからである。
後に、分派がいくつか出来たというが、
『○福の科学』は、高橋信次の名前を出していたが、
全くのまがい物であると思っていた。
高橋信次も予言していたと後に知ったが。
『○福の科学』は、分派でも何でもないと私は思っている。
少なくとも、当時の高橋信次の残した宗教団体は、他人の悪口は決して言わなかったからだ。
『○福の科学』波動で良い方には選べなかったし、
自分が非難されたら、すかさず対抗する態度には違和感を覚えた。
(例:フライデー事件)
宗教は現世利益を得る装置ではない。
例えば、『○福の科学』に集まる人々はやがて矛盾と疑問に苦悩する未来しかないだろう。
宗教を舐めないでいただきたい。
本を沢山購入したところで、貴方達の心は安らぐはずもないのだ。
さて、「生長の家」の話題に戻るが、1980年代あたりから
右翼的な宗教団体であったとされている。
これは公然たる事実である。
途中から、なにやら、変貌したのも事実らしいが。
(詳しくないっす)
出口王仁三郎との縁から、「生長の家」は生まれたらしいが。
そこから見ていかないと、「生長の家」については、わからないかもしれない。
出口王仁三郎については、武田崇元氏の『霊界からの警告』
(光文社)などを参照。
宗教でも何でもだけど、大衆を説得出来なければ、改革者にはなれない。
出口王仁三郎は、それをやり遂げていた1人なのだろう。
私にはわからないが…
私見であるけれど、『日本会議』は、リアクション的な団体だと思う。
日本をダメにする何らかの原因を駆逐するために出来たのだと見ている。
だから、本物がいずれ出てくる前の叩き台のようなものだと感じるのだ。
おかしくなった某教団に対抗する形で現れたのかなとか。
それはそれで、志は立派ではないか?
だとしても、やり方は問題かと。
集まる人間に、問題が残るなら、いかがなものか、と見られる訳だ。
画像は
堀幸雄著『戦後の右翼勢力』
の「右翼勢力の改憲戦略」のあたり(p.231)
読むと、20年間、変わってない訳か、となる。
政治とは.....国とは......
今から、考え始めるとして、間に合うのだろうか?
いずれにしろ、戦前の考え方は、日本はカルト宗教的であったし、
「日本会議」は、ひたすら、戦前を目指しているようにしか見えないというのかな、
いったい、この「日本会議」の背後に、誰が、何がいるのやら。
多分、調べでもわからないのだろう。
『週刊プレイボーイ』によって、『日本会議の研究』の中枢が、
新興宗教「生長の家」出身者ばかりだということを知ったが、
ビックリしなかった自分自身に、今は『なぜ?』と自問している。
思うに、新興宗教の流行っている時期が、私の青春時代。
高橋信次の本に出会った頃と、まったく同時期に真光教団に興味を持った。
真光の彼らは、公園で、真光のパフォーマンスをやっていた。
たまたま、通りかかった私は興味を持った。
親に内緒で、15000円の御みたまとやらを得た。
全くの興味本位であった。
高橋信次の本『悪霊』も、同じように興味本位で買った。
買った時期は、悪霊にやられていた訳ではなかったが。
(後に役に立った)
時は新興宗教の流行っていた頃で、コミック評論本と
スピリチュアルな本を一緒に購入するのが自然な時代だった。
当時の私の知人のひとりが、「生長の家」に熱心だった。
彼女は、かなりリッチな美人。
「生長の家」にしろ、宗教は、信じても人を幸せにはしないよ、と言った覚えがある。
そうした新興宗教でも救われない重いカルマの問題に悩んでいた私は、
新興宗教なんぞ、気晴らしでしかなかった。
高橋信次は、私からみて、今でも本物の宗教家だが、
彼の残した宗教団体は、彼の言っている事とは違っているため、私は根本的に受け入れていない。
『宗教でメシを食うな』が、高橋信次の真骨頂であったからである。
後に、分派がいくつか出来たというが、
『○福の科学』は、高橋信次の名前を出していたが、
全くのまがい物であると思っていた。
高橋信次も予言していたと後に知ったが。
『○福の科学』は、分派でも何でもないと私は思っている。
少なくとも、当時の高橋信次の残した宗教団体は、他人の悪口は決して言わなかったからだ。
『○福の科学』波動で良い方には選べなかったし、
自分が非難されたら、すかさず対抗する態度には違和感を覚えた。
(例:フライデー事件)
宗教は現世利益を得る装置ではない。
例えば、『○福の科学』に集まる人々はやがて矛盾と疑問に苦悩する未来しかないだろう。
宗教を舐めないでいただきたい。
本を沢山購入したところで、貴方達の心は安らぐはずもないのだ。
さて、「生長の家」の話題に戻るが、1980年代あたりから
右翼的な宗教団体であったとされている。
これは公然たる事実である。
途中から、なにやら、変貌したのも事実らしいが。
(詳しくないっす)
出口王仁三郎との縁から、「生長の家」は生まれたらしいが。
そこから見ていかないと、「生長の家」については、わからないかもしれない。
出口王仁三郎については、武田崇元氏の『霊界からの警告』
(光文社)などを参照。
宗教でも何でもだけど、大衆を説得出来なければ、改革者にはなれない。
出口王仁三郎は、それをやり遂げていた1人なのだろう。
私にはわからないが…
私見であるけれど、『日本会議』は、リアクション的な団体だと思う。
日本をダメにする何らかの原因を駆逐するために出来たのだと見ている。
だから、本物がいずれ出てくる前の叩き台のようなものだと感じるのだ。
おかしくなった某教団に対抗する形で現れたのかなとか。
それはそれで、志は立派ではないか?
だとしても、やり方は問題かと。
集まる人間に、問題が残るなら、いかがなものか、と見られる訳だ。
画像は
堀幸雄著『戦後の右翼勢力』
の「右翼勢力の改憲戦略」のあたり(p.231)
読むと、20年間、変わってない訳か、となる。
政治とは.....国とは......
今から、考え始めるとして、間に合うのだろうか?
いずれにしろ、戦前の考え方は、日本はカルト宗教的であったし、
「日本会議」は、ひたすら、戦前を目指しているようにしか見えないというのかな、
いったい、この「日本会議」の背後に、誰が、何がいるのやら。
多分、調べでもわからないのだろう。