あらたな視野が目の前に見えてきた人々に……

思い出せない記憶が結構ある。
それは、幼い頃だけかと思っていたら、実際には、高校生の時までそうだった。
それが、霊媒体質の兆候だったのか、精神病の兆候だったのか……?

私は、霊媒体質は、精神分裂病紙一重かもしれないと思う。
ただ私の場合、普段、見えないものが見えた事はほとんどないが、感じたり、聞こえたりはする。
でも、私は狂わない。
指導されているからだ。
私は指導霊がいなかったら、自分を失い、罪を犯していたと思う。
今の私はなかっただろう。

指導霊が今も見守っていてくれるきっかけは、苦しんでいた私が
あの世に強く助けを求めた事だった。
真っ黒いモノで充満していた前か後かは、記録がないので、よく思い出せない。

強い怒りが溜まりに溜まったような感じだった。
真剣に自分の未来を相談しても、親が本気で相手をしてくれなかった事や、
結婚を考えてくれていた当時の交際相手が、私の両親に紹介されたがっていたのに、
紹介出来るような家庭環境ではなかった事などが、続けて起きて、
元々苦しんでいたのが、とうとう限界を超えてしまったのである。

私は思った。
私の未来は、間違いなく、どんな道を選ぼうと、理解者は1人もいなくて破綻すると。
それが私の運命だと。


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恋人が、仕事で数ヶ月インドに行っている間、ひどく孤独だった。
彼が近くに居ない事が、寂しくて空しくて仕方がなかった。
なのに、3日に一度は来る手紙には
『愛しています』『君に会いたい』『結婚しようね』……だ。
この人は本当に、私の何がわかっているのだろう、と思った。
要するに冷めちゃった。

元々、好きになったというより、一緒にいつも居て、自然に親密になった人で、
私の心が、これほど複雑怪奇だとは、思いもしなかったと思う。
彼が帰国してきてから別れを告げたけど、別れを決意するまでには、本当に悩んだ。
この当時の事は、実は、まだ整理されていない。
思い出せない箇所がある、たぶん辛くて抑圧しているのだ。

普通は、恋人の手紙に書かれた愛情表現を単純に嬉しく思うが、私は無感動だった。
本当に、心のねじくれた子供だった。

初めて、私を子供扱いしなかった人間が彼だった。
彼の両親には私は紹介されていて、彼はとてもジェントリーだった。
良い大学、良い職場、豊かな家庭環境。
思い出すと小説みたいだな(笑)

だが、あの選択を悔いた事はない。それだけ苦しんだ。
自分1人で全てを背負った。
それでよかったと思っている。

この別れから、ガラリと私の人生観は変化する。
可愛がられ、甘やかされていた世界から、奈落へ──(大袈裟かも)
惨めな気持ちだった。卑屈になった事はないが、来た道を引き返す事が、精神的に
これほど重いとは思わなかった。
振ったほうなのに、勝手に惨めな心境になっていた私は、相手の私への「責め」の念を
食べてしまっていた。

あの世に救いを求めるまで書きたかったけど、実は、この、別れを決意し、全てを引き受けてから、
いろいろあったけれど、結局は、道が開けて、希望していた道に進めた。
私らしい道に。

だが、思わぬ落とし穴が……それがカルマってやつだ。そして、記憶が抜け落ちている。
ちょうど、その時期が、不思議な事が起きてばかりの時期にあたる。
そこは今回は省略するが、過去記事では、ちょこちょこ書いてきた。
通しで書くのは、やっぱり難しい。
結構、壮絶だ。


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我ながら、霊感は、本物だと思う。
残念ながら、悪霊ばかり感じてしまう。
昔は天使も感じたんだけど。
だから、こちらから呼んでも支障は無かった。
今は、向こうから来なきゃ、知らん顔してる。
間違いを起こしたくないから。

ひとつの誤ったチョイスは、すべてに影響する。
『このくらいいいだろう』は、通用しないのが、霊的な世界だ。
キビシイ。

だから、リラックスしている癖が付いている。
変なものを混ぜれば、純粋なヒアリングが出来ないのだ。


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他人と比較はしないし、劣等感を感じた事は無い。
自信を持って言える。
そうでないと、霊的な世界への対応に、歪みや曇りが生じてしまう。

これは、私が自信家で、自惚れ屋という事ではない。
実際、常に『あちゃー』な状態の私、自信家になるヒマはない(涙)

高橋信次の教え通りにするのが現実には、とても難しいように、

こうした、

・自分を卑下しない。(劣等感を抱かない)

・他人と自分を比較しない。

という精神状態を保持するのは難しい。

特に、他人と自分の比較は日常に溶け込んでいるので、無意識に、普段、当たり前に
やっていて、自分と他人を比較する事は、日常の大半だったりする。
しかし、他人と自分を比較して、劣等感を抱いたり、優越感を抱いたり、1日のうちに
目まぐるしく感情がクルクル変化する事は、誰でも覚えがあるはず。

宗教者には、そういう瞬間瞬間の自分の心の状態までみてゆく人もいる。
それだけ、自分の精神状態が、外界に影響することを深く認識しているのだろう。
普通に生活している(在家)人々には、そんな反省は到底不可能な事である。
しかし、基本的な理解として、そこまで考える人々もいる事は捉えておこう。

「自己卑下しない事(劣等感を持たない事)と、「自分を他人と比較しない事」は基本だと
わかっていないと、危ないワケです。特にスピリチュアルに傾倒していたなら。

どう危ないか、というと、例えば、悪霊と天使が入れ替わってしまうという事が起きやすくなる。

経験から言える事だが、
ほとんどの迷い、精神の歪み、邪悪な動機などが、
他人との比較や、劣等感から来るものだと今は理解出来ている。

私は、元々、自分の内側に、そうした、『自分は自分』という、しっかりした自我を持っていた。
いつも、本を読んでいた。母が、読ませていたのだ。
自我はそれらから出来たのか、それ以前からあったのかは、
わからない。

不思議な事に、7歳の頃の自分と、今の、私(老人)は
あまり変わってないような。

そういえば、よく体育を休んでいたのは何故?
ピアノ教室の先生の顔が真っ黒だったのは何故?
あらためて、疑問が湧いてきた。
あの頃から、霊媒体質だったのか…。

後に、調べてみてわかった事は、ピアノ教室の教師は、当時浮気をしており、また短命だった。
小学校の時の2年生の時、ほぼ記憶にベールがかかって、はっきり思い出せないのは、
家庭環境の影響だったり、高校時代のベールがかかった記憶は、当時から、家に不可解な
霊現象が起きていたりしていた時期で、やはり、霊的な影響を受けていた訳で。

呪われっこの自分に気付いたのは、いつだったか?
だいたい、お勉強が出来ないのもそのせいだったんだから(嘘

私は、突然、動けなくなってしまう癖があり(金縛りのように)
最近、ひどい頭痛が1ヶ月続いたので、
もしかして、てんかん体質じゃないか、とか
未知の持病が隠れているのではないかと、考え出している。
気を失った事はないが、これまで霊的だと思っていた、精神のうずくまり、
身体の無力感によるうずくまり、などは、もしかしたら、神経の何らかの
病気ではないかとか、考えたりしている。

私の場合、耳鳴りや耳ノイズは、絶対に、電気製品ではない。
12日(日)外で、ピキピキ鳴ってた。まあ、病気かもしれないが(爆)

私は、この数年間で、耳ノイズだけでなく、有機的波動もあった事を振り返り、
かなり大雑把だが、データをたまに分析していた。
世界の事件とすり合わせてみた。
その結果、世界の邪悪な波動と、人間の邪悪波動を、人間が感じる事はあると思った。

例えば、何度も書いてる『負』のエネルギーは、本当に恐ろしかったが、
静かにしていればよいと天使は言った。

ズバリ言えば、『負』の波動とは、“暗殺”の恐れを表す波動なのだった。
あまり言いたくはなかったが、経験からしか言えないが、
2013年、9月15日は、『負』の波動が、あれほど露わに感じられた事はなく、
私はネットで鉄道関係での暗殺を探していた。
馬鹿だと思うだろうが、あの世ではすでに起きていて避けられない事はあるのだ。
その翌年、『これか…』と思う記事があった。
自死扱いだったが、それ以前にも、同じ地位の人が自死していた。

「暗殺」といえば、2月13日(日)の北朝のボスの義理の兄。
明確な『負』の波動はなく、右脳に、土日(11日、12日)変な曇りがあり、
『こりゃなんだ?』だったから、様子見だったが、
2月12日(日)早朝の北朝鮮のミサイルと関係あるのかどうかはわからない。
当然、暗殺に関連しているかどうかとも。
化学工場火災とか、鉄道事故とか、停電とか、闇の策略がいつも、ある時期に
セットになって起きている事は、何となくわかってきた。

かつては身近に感じていた人々でも、争いあう出来事の事を、
このところ考えていたので、その関係かもと考えていた。

だが、やはり、そんなものより、ミサイルだ外交問題だ。きっとあのシグナルは…
だが、ミサイルの件は、ニュースで聴いても、心は動かなかった。
去年のネバダのパイプラインのニュースの時の、内なる高ぶりは不可解だったが、
ミサイルで何も感じないのも不可解だ。

しかし、何に感じるか感じないかは、現実に、
自分が何を大切にしているかを自分が知る良い機会かもしれない。

『不可解だ』などと言っているのは、ダメなのだ。
天使ならそう教えるだろう。
経験から、はっきり言える。

だから、自分の言葉で、こうした出来事と、自分の感じた事を書いてみるといい。

自分は、意外と自分を知らない。

たとえば、私は、ゆっくりしたいが、なかなか出来ないでいた。
何度も風邪をひき、ひどい頭痛は起き、
体調を戻すために、与えられた時間なのに、原因を他人のせいにしている私がいる。
それじゃ、前に進めない。カラも打ち破れない。
最終的に、解答は出なかったが。

他人のせいじゃないなら、自分の感じ方のせいになるだろう。
『真実が知りたい病』の私自身の…


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ふと、人間が魔境に落ちたら、どのような事を言うのだろうかと考えたくなった。

悟った人間に、霊的な存在は、ソトから通信してこない。

仏陀は、悟る前、様々な幻に誘惑されたようだが、同時に、
素晴らしい霊人達の訪問も受けていたはずだ。

悟りを開けば、助けはいらない。自分で悪霊を見抜く。
見抜いた上で、周辺に良い影響が放たれるよう、仏陀自身の心を、
自ら戒められていたはずだ。弱い心だから、悟ろうとされたのだから。

他人の曇りすら、仏陀は、ご自分の心に見られていた事だろう。

人間はすぐに自惚れ、自我に酔いしれ、怠惰に流れてしまう。
心も同じだ。
他人と話をしただけで、心はすぐに曇り出す私だった。

常に、自分の心のスタート地点に居て、
感情を動かさず、
今日体験するあらゆる出来事を学びとして、
1日を終える事が出来たら、なんて幸せな事だろうか。

人生の全ての時間は、学び、学習、魂の輝きを取り戻す為にあった。

そして、2012年、1月5日に私が聞いた啓示は
『人間は修行の場としては、地球を去る事になりました』
というもので、てことは、だ。
修行の場所ではなくなる事は決定している事になる。

これが、私的、目指すべきタイムラインか?


悟りとは、自分の悟った状態に安住するコトの怖さ、無意味さを知っている状態の事だ。
仏陀は、知っていた。そして実践した。

エスは何でも出来たけど、激しい性格だったようだ。
敵は出来やすかっただろう。
だからキリスト教は、争う歴史が続いたのかもしれない。
でも、必要だったのだろう。イエスのような人も。



(わかりやすくするために、内容は変えていませんが、修正したり、加筆しております)