宗教と心と天使と………あの頃、貴女は若かった

霊媒体質に、『気』の問題が入ってくるのは、占い師2人の合致した鑑定結果がキッカケだった。
『気』と、霊的な波動は違う。
私は、ある限度内という範囲でなら、『気』を扱えると思う。
この『気』こそは、エネルギー、フォース、プラーナと呼び名は様々だが、健康体を司るモトに違いない。

これを応用する方法を教えてくれたのは、『ムー』だった。
実用特集の若返りの方法である。今では、わりに当たり前になっている若返り体操も、
当時は画期的だった。これを私は20代からやっていた。
なぜなら、霊的な苦痛が終わるのが、年を取ってからになるだろうと予測できたので、
その時の為に、少しでも若くいたいと思って始めたのだ。(早すぎた?(笑)
チベットの覚者から教えられたとかいう、ヨガのような体操である。

宗教では、救われなかった。
とある宗教で、私は正直に悩みをある男性に話した時、本当に腹が立ったのだが、
たとえば、原因はカルマとか、霊だとかわかりきった事しか言わず、要するに、
何もわかっていない人間に相談してしまったのだった。
地方だったから、祖父の仕事を知っていたある人は、私の苦悩の原因を作り出した
この祖父の事を、『立派な人物』だと言って、『立派な人のお孫さんだから、
真実の教えに辿り着けたんですね』と言われた。
それって、なんか違うだろ?………そう思っていた。
ワタシはワタシだ。家族なんか関係ないヨ。

これが、まだマシな、というか、まともな教団だと言われていた所の実態の一例である。
現在は違うだろうし、今の教組も良いとは思うが、彼らは過去を隠蔽している。
まだマシな所だと思ってはいると言っても、それは、他の教団のように、片寄っていたり、
変な事をしないからというだけだ。
過去を振り返ると、あそこも、ある意味、奇妙だった。
初めて、本音を語る事になるが。

もちろん、1代目は、私から見れば、ホンモノである。
だが、ここに関する事では、大きな怪獣みたいな魔物をとある駅で見て以来、
遠ざからねばと思った。得体の知れない存在に狙われているのだと思った。
会員というか、信者ではなかったのだが。初代への懐かしさから、時々行ったのだろう。

あのデカイ怪獣……スキがあったのかどうかはわからないが、あの教団、まともな経過は
踏まないだろうという予想があった。あそこまで狙われているのかと、驚いた。
多くの芸能人や経済人が出入りしていたが、現在、第一線の政治家も出入りしているようである。

本当に苦しんでいた私を、理解出来なかった人々が決して悪いのではない。
彼らは、大変さは理解してくれた。
だが、これでわかってきた事があった。

ほとんどの人は、他力信仰であり、凡庸に、カリスマ教祖を信じていたのだ。
もちろん、私は、本の著者は好きで、信じていたが、集まりは無意味だと感じていた。
2代目には、人々を救う力があるとは思えなかった。
2代目は、自分と縁があるなしで、去ってゆく者と残る者を分けていた、
初代とはかけ離れていた。

あれこそ、悪霊の働きかけがあったんだったんだろうと、今なら思うが、
当時は、2代目は彼女を疑う思考に向かわせないようにするような講演だったので、
ハートに響かなかった。
あのまま、今日まで、数十年来た人は苦しかったろうなと思う。思考をさせなかったというのは、
自由意志を、カルト的思想で摘み取ったと思うからだ。それは罪である。
前世を覚えている者同士なら、魂の領域での上下関係がこの世に、2人の合意によって
成り立つと思うが、アタシにには通用しない。
アンタが天使でも、アタシにはカンケーねえ。

まあ、常識的に考えて、天使があんなふうに、現実世界で、自己主張するはずはなく、
天使ではなかったのだと思っている。
わかっている人は多かったようだが、中の人々は、今でも信じているのだ。

では、本当の天使とはどのような波動なのか。
私は、神戸で、本当に天使の波動を感じたが、ホンモノの証明は、当然出来ない訳で。
ただ、ともかく、白くて、優しく、品格というより、密やかな風のような、巧みで
存在がいわゆる香気があって、跳ねる馬のような純粋な運動があるというか…
(伝わったでしょうか?(笑)

そのようなものを、2代目に感じた事がない。
神戸で天使に出会った時のように、自由でイキイキした感覚がない。

私は、自分から自分を不自由にしたい訳がなく、私に非がある訳もなく、誰も悪くはなく、
単に、私には、彼女の言っている事が、信頼出来ないのだった。
『私は天使だ、ここに集まってるのは偶然ではない。私についてこい』と言われても。
ハートに響かないのに、誰が付き従うだろうか。

ただ、後に、2代目は変貌した。イイ講演会を何度も聴いた。
問題は教組ではないのだ。

だが、そこの教えは、2代目に不満があったり、去ったりした場合、苦し紛れとしか思えないのだが、
「2代目と縁が無い」あるいは、「何かに、誰かに不満を持っている」という事になっていた。
パラドックスっぽいと思った。

私は単純に関心が無かったのだ。
だが、2代目は『縁があるから、皆さんはここにいるのだ』と言っていた。
こういう言い方が、カルトの常套手段なのである。意味がある、縁がある、前世の縁──
これを一応受け止めてあげたのだ。

だが、普通の人間関係と同じで、意識の中の我と汝、つまり、私と貴女。
貴女が私を必要としても、私には、あなたが果たして必要なのだろうか。

人間は何かを縁として、出会いのキッカケを持つ。
2代目には、私は、縁らしいものは何も感じなかった。
それに、共通部分が無かったら、相手に関心を持つだろうか。
未知の領域で、「意味がある」「必然である」と言われたって、実感が無いものは、
せめて、ハートに感じる、魂を動かすという感覚があったなら、違っていたのだろうが。
2代目は、私の尊敬さえ得られず、ハートにも響かせられなかった。

波動は、感じられなかった。彼女は、私の知り合いでも無かった。
私は彼女の本の愛読者でさえ無かった。

今なら、悪霊の仕業だとわかるが、彼らは認めないだろう。
あれらを天使の行為だという人は、無理矢理そう思いたいだけである。
なぜ認めないか。
教団自体が危機となるからだ。すでに当時、危機だったという事だろう。

1代目も2代目もゴタゴタが続いた。
その宗教の教理の真似事の様な宗教が幾つも出来て、1代目の成した仕事は、
泥靴で踏まれるように汚されていったが、静かに離れた人々は、宗教という形に
こだわる事なく、1代目の奇跡の記憶を忘れる事なく、ああちこちに散らばっていき、
活動していったようだ。

あそこをコピーした真似事の宗教団体は、2代目を否定し、また、1代目の存在を汚していった。

1代目を見た事もない、キリストを見ずキリストと出会ったというパウロを真似てでもいるのか。

かつて、何の先入観もなく、亜流教団の本を読んでみたが、2代目以下のお粗末さだった。
年月が経過し、亜流の1つは信者数を劇的に増やしていったが、品性に欠けている所があった。
オリジナルの教団を多くの人々が知らないが、亜流の教団で使われていた言葉は、1代目から
パクったものだったりする。

思うに、ホンモノだと思う1代目も、他の先輩新興宗教から、あるいは、外国の宗教からパクった
箇所があるんじゃないかと思えるフシもあるが(笑)
すでに、1代目で、役割を終えていたのかもしれない。
1代目に縁をいただいた人々は、非常に幸運だったと思う。

天使について、再度。

私は、神戸で、本当に天使の波動を感じたが、ホンモノの証明は、当然出来ない訳で。
ただ、ともかく、白くて、優しく、品格というより、密やかな風のような、巧みで
存在がいわゆる香気があって、跳ねる馬のような純粋な運動があるというか…(伝わったでしょうか?(笑)

とにかく、コレが、私にとっての、天使なのです。
人生が一気に変化した。これは後になって、ふりかえってみて、感じた。
なにしろ、神戸へ行けと言ったのも天使だったのだから。
『神戸へ行け』という声を聴いたこの時も、解答を求めて、悩みで詰まっていたかな。
自分でもどうにもならない事態に陥っていたので。何があったか、思い出せないけれど、
うずくまるしかなかったなあ。自分の意思でも、どうにもならなかった。
だから、天使が来るワケで。
魂の危機の時しか来ない。悪意も憎しみも何もなく、 空しさだけが続く状態だった。
行く前と後では、仕事ががらりと変わったのには驚いた。
(行く前に予言されていた。まさか、の世界っす)