夏目漱石の禅のココロ(2)

「門」の主人公宗助の言葉の続きである。


 今までは忍耐で世を渡って来た。これからは積極的に人生観を作りかえなければ
  
 ならなかった。そうしてその人生観は口で述べるもの、頭で聞くものはだめであった。
 
 心の実質が太くなるものでなくてはだめであった。


参禅後、漱石は振り返ってこう言っている。

 《10年以上もたった時、漱石は「余は禅というものを知らない。昔、鎌倉の
 宗演和尚に参じて父母未生以前本来の面目はなんだと聞かれてぐわんと参ったきり、
 まだ本来の面目にお目に懸った事のない門外漢である」と述懐している。
 自ら門外漢と称するところに逆に漱石のなみなみならぬ自信が感じられる。》 (p.218)


禅の体験前、夏目漱石は弱い心を抱えていて、参禅して、悩みを突き抜けたのだろうか。
漱石の「自己本位」のニュアンスは、とてもみずみずしくて好き。
今でも、追求してみる価値があると思う。(時間があれば、勉強してみたいけど)


さて、この本は 「禅がわかる本」ひろさちや著 ではなく(似ているが)
●「禅のわかる本」菅原義道著 廣済堂刊 1977年刊 
である。
絶版で売り切れみたいだ。
わかりやすくておおらかで好きな本。
(100円だったが200円でも買ったと思う)


オマケである


「禅のわかる本」菅原義道氏は、高校の国語教師をしておられたようだ。
教え子が思い出を語っているHPを見つけた。

生命について【悟りとは】 ある和尚さんの思い出
>私の高校時代の国語の教師は近くのお寺の住職だった。
>生徒はかげでエロ坊主というニックネームで呼んでいたが、
>いま思えば(略)
>その先生が「今朝、お寺の大木がそびえているのを見て、
>この木は生きているなと感じたよ」と何か感慨深げに言われたこと
>を覚えている。坊さんとはこんなことを考えるのかと思った。………

(終)