ダンディズムは創作のテーマ(1)

なのである。
たぶん長くなりそうなので、いくつかに分けて段階的に書いてゆきたいと思う。

まず、同性愛は、ダンディズムの極致的状況ではないだろうかと感じる。
ダンディズムを書きたいなと思ったら、同性愛にテーマが絞られていった。
オスカー・ワイルドなど唯美主義者の「獄中記」著者である彼は、また、
女性のダンディズムを書いた作家でもある。
ダンディズムにこだわって生きた作家でもあった。
(ワイルドの野卑な唇はセクシーだと思ったことも触れておきたい)

さて。
オスカー・ワイルドは美貌の妻がいたが、同性愛事件がもとで破綻した。
ワイルドにとっては、同性愛は趣味であるダンディズムの具現化の姿だと思うが、
人生を賭けた趣味になってしまった。
二年に及ぶ獄中生活から出ても、彼はかつての輝きを二度と取り戻すことは
なかった。まだ若かったが、みじめに老いて死んだ。
サヴォイホテルだったかな。資料も見ずに書いてるので。
というのも、ワイルドの「獄中記」は高校時代、読んでたからなー
坂口安吾を文芸部部長は読んでたんじゃなかったか。

えーと、話をもとに戻すと、同性愛は、ダンディズムの極致的状況では
ないだろうかと感じる、というところから。

ふつうの男女のカップルを「ヘンタイだわっ!!」と言ってのける
「同性愛嗜好者」から見れば、おかまとおなべが結婚して、
戸籍上はなんの問題もないカップルに対してさえ、
夫役のおなべが「妻(♂)のために子どもを生む」というような、
どんなに男前なことをして一般的社会である周囲が評価しても、
「いや~ん、そんなのヘンタイだわよ!!」
と体全体をヒネリながら悪態つけてきそうだ。(笑)
もちろん、ジョークとしてであるけど。

同性愛者は、時代を先取りする達人としてもてはやされている。
しかし、あのハリウッドですら、「自分はゲイです」とカムアウトして
干されることがなくなったのは1990年代だった。
日本は、マイノリティだけど、承認されていたゲイもいたのだから、
感覚がアメリカと違うかな。

おかまやおなべが、本来求めるべき同性でなく、異性と恋に落ちてしまうことは、
社会の同性愛や倒錯愛行為者への偏見を拭い、まちがってるにせよ、
理解を深め、認知度が広がることに貢献しそうなのだけど、
そういえば、本来のあるべき姿ではないような気もする。(笑)
同性愛者は、彼らを異文化と捉えるように思う。
そうだね。確かに異文化かも。(笑)当然、今はマイノリティ。
長年蓄積されたおかま文化や伝統?に対する反逆かもね。(笑)


では、同性同士の結婚はどうか? 
同性どうしの「結婚」は戸籍上のさまざまな制度を駆使して行われるんだろうけど、
「家族」となるのだから、そこにはお互いに責任が生じる。
ひとつのけじめをつけることのできた者を、社会は単純に評価する。

けれども、こんなに簡単に社会に認知してもらえる人々を、
孤独なゲイ達は腹立たしく思わないだろうか。
彼らは長いこと、欲望の先が異性でないということで、自分達が
「社会的にみて無意味な行為をする者である」という自覚がついてまわり、
常に他者から自己否定される不安と向き合ってきたと思う。
努力と才能で社会的認知を獲得した独り者のゲイも含め、
そんな同性愛者の多くから見れば、長期契約で結ばれた同性愛者は、
どうしようもなく嫉妬と羨望の対象だと思う。

でも、芸能人で才能豊かな人で「結婚」してる人がいるけど、
「結婚」してようが、同棲してようが、コミカルでバラエティ系のくくりで
完結してしまうタイプのタレントだったら、関係ないですね。

ふと、ダンディズムを表現してる人には、性的魅力は不可欠だと思えてきた。


あ~疲れた。頭の中がぐるぐるしてきた。
とりあえず、今回はここまで。