「哲学の練習問題」 西研著 川村易イラスト NHK出版
「究極のエロス、日々のエロスがある」というコピーがついている。
エロスという言葉は、何も性欲に絡んだことばかりではない。
日々のあらゆる気持ちよさだって、りっぱなエロスなのである!
(だよね?)
私は知らない。でもとにかく、言ってることはわかる。
資本主義の原理?のような快楽追求の二次的願望みたいな欲望。
プラトンの時代に、こういうことがわかっていたというのはすごいな。
人間は昔から、変わっていないと言うことなのだ。
すごくよくわかると思う。
好きな人のために、相手が困っているとき、それを取り除いてあげて、
これがほしいのと言われれば、買ってあげる、悲しいことは聞いてあげる、
すべて無償の愛です。相手が喜ぶことをしてあげたいのだ。
相手が微笑んでくれれば、自分も嬉しい。そのためなら、
どんなことだってできる勢いが「恋」にはある。
「恋」とは相手の犠牲になっても悔いのない不思議な状況。
苦しむことで、最終的に相手の心を自分だけのものにできる、
そのエゴイスティックな欲望を満たすために、純粋な自己を捧げ尽くす、
エゴと無償のコラボこそが、「恋」の独特な特性なのだ。
「恋」にはエネルギーがいるけど・・・。
恋の成就が待っていると思うと、苦しみは苦ではなくなるのだ。
信仰も恋心と同様ということなんだろうな。
では、「恋」(欲望)は無意味だっていうことなのか?
この人は若いとき、恋人に裏切られたという形の(友人にとられた)失恋で、傷付いた
過去があります。それを頭に置かないと、ときどき、この頭の良すぎる哲学者さんの
書いた文はよくわからない時がある。
というより、それを置くと、どの著作も味わいがちがうのだ。
エロスという言葉は、何も性欲に絡んだことばかりではない。
日々のあらゆる気持ちよさだって、りっぱなエロスなのである!
(だよね?)
人間の「欲望」が不思議な性質を持っていることを、プラトンはよく知っていた。たとえば彼の作品『饗宴』のなかには、ディオティーマという謎の婦人が登場してこう語る。<人間は有名な人となって、「不滅の名声を永遠に打ち建てること」への恋心のためには、どんな危険をも冒し、金銭を費やし、いかなる労苦にも服し、さらにはどのために命を捨てるのです>と。
ディオティーマ?私は知らない。でもとにかく、言ってることはわかる。
資本主義の原理?のような快楽追求の二次的願望みたいな欲望。
プラトンの時代に、こういうことがわかっていたというのはすごいな。
人間は昔から、変わっていないと言うことなのだ。
たしかに人間は、ただ身体の快を求め不快を避けるようにして生きてはいない。名誉や恋、「真実の生き方」というような何か絶対的なものに触れられると思えたとき、人は異常なほどのエネルギーを発揮してひどく苦しいことにも耐えられる。
とにかく、自分に経験した「恋」を思い浮かべれば、この文章の言ってることって、すごくよくわかると思う。
好きな人のために、相手が困っているとき、それを取り除いてあげて、
これがほしいのと言われれば、買ってあげる、悲しいことは聞いてあげる、
すべて無償の愛です。相手が喜ぶことをしてあげたいのだ。
相手が微笑んでくれれば、自分も嬉しい。そのためなら、
どんなことだってできる勢いが「恋」にはある。
「恋」とは相手の犠牲になっても悔いのない不思議な状況。
苦しむことで、最終的に相手の心を自分だけのものにできる、
そのエゴイスティックな欲望を満たすために、純粋な自己を捧げ尽くす、
エゴと無償のコラボこそが、「恋」の独特な特性なのだ。
「恋」にはエネルギーがいるけど・・・。
恋の成就が待っていると思うと、苦しみは苦ではなくなるのだ。
さらにディオティーマは、この<恋い焦がれ(エロース)>が肉体や名誉などのどんな対象に向かうとしても、その根底には<永遠至上な美そのもの>への憧れがある、という。美しいものに憧れ近づこうとするところに人間の欲望の本性がある、とプラトンは固く信じていたのだ。
ここで書かれている内容で、宗教を思い出した。信仰も恋心と同様ということなんだろうな。
しかし他方で、名声や恋や絶対的なものを求めるからこそ、人はひどい苦悩を味わうのではないか。名誉と成功を求めてかなわないことの屈辱。恋がかなわないときの、また絶対な価値など存在しないと思えたときの虚脱感。そう考えると、このような、「過大な欲望」そのものが悪だとも思えてくる。
恋の成就が叶わないとき、それまでの犠牲時間は無意味になるということか。では、「恋」(欲望)は無意味だっていうことなのか?
十八世紀の思想家ルソーは<私たちの欲望と能力の不均衡のうちにこそ私たちの不幸がある>といった。この不均衡をもたらす犯人は<想像力>であり、想像力が欲望を刺激して「もっともっと」大きな幸福を求めさせ、ついに私たちは疲れ果てる。だから<できないことはできないと認め、できることだけをするのが真の幸福の道である>。たしかに多くの人がルソーのいうようにして青年期の過大な欲望と現実とのあいだに「折り合い」をつけていく。そのとき、プラトン的な欲望はすっかり断たれてしまうのだろうか。
うーん、足ることを知れということか。この人は若いとき、恋人に裏切られたという形の(友人にとられた)失恋で、傷付いた
過去があります。それを頭に置かないと、ときどき、この頭の良すぎる哲学者さんの
書いた文はよくわからない時がある。
というより、それを置くと、どの著作も味わいがちがうのだ。
なんか、この本の出された2000年に、挫折感がまだ残ってる人だなあ
という印象。だけど、これからも忘れずにいてほしいと思う。
人は若き日々の恥や挫折を忘れてゆく、というよりは、忘れたことにしてゆくものだから・・・。
ふと、「自分とはどうだったんだろう?」と自分の源を訪ねるために、
この人の本に読みふけるときがある。
この本はもっとも読みやすい。
忙しいとき、この1000字の哲学の本で、私はその日に元気をくれる文章を探す。
という印象。だけど、これからも忘れずにいてほしいと思う。
人は若き日々の恥や挫折を忘れてゆく、というよりは、忘れたことにしてゆくものだから・・・。
ふと、「自分とはどうだったんだろう?」と自分の源を訪ねるために、
この人の本に読みふけるときがある。
この本はもっとも読みやすい。
忙しいとき、この1000字の哲学の本で、私はその日に元気をくれる文章を探す。
著者は、身近な人々との関係の中で得る実感を最後に語って、
こうまとめる。
自分をどう再構築したらいいかわからず、あせりまくっちゃう人、
この本で、脳にコーヒーブレイクさせてあげてください♪
こうまとめる。
ぼくの場合だと、「彼方にある絶対かつ永遠なもの」に憧れる感じはあまりなくなってきたが、でもかたちを変えて生き続けているように思う。たとえば、奥さんや友人に対して、また、いまこの時を生きていることに対して「かけがえのなさ」を感じるときがある。またまっすぐな生の努力や人間関係への努力にハッとして「美しい」と思うことが多くなった。人間の欲望とはいかなる本性を持ち、どのように作られていくのか。この問いが、この数年来ぼくの心を捉えて離さない。
少し、体調の回復した人で、生き方がわけわからなくなった人、自分をどう再構築したらいいかわからず、あせりまくっちゃう人、
この本で、脳にコーヒーブレイクさせてあげてください♪
おいしいお菓子とコーヒーやハーブティーと一緒にネ♪
古本で800円。迷わず買った。得だと思う一冊。
定価1500円で買っても、価値は同じ感覚だ。
定価1500円で買っても、価値は同じ感覚だ。
竹田青嗣さんの弟分だけど、竹田さんてなんだかなあ・・・。(ボソ)