なぜ、ここに、私はいるのか? 自己の質が変わる時(1)
●「十牛図・自己発見への旅」 横山紘一著 春秋社1991年刊
と。
それまで自分を支えてきたいっさいの存在と価値とが瓦礫に帰して
しまうような、恐ろしく不安な気持ちに著者がおそわれた時、
この経験を貴重なものと、大切に思ったのだった。
それまで自分を支えてきたいっさいの存在と価値とが瓦礫に帰して
しまうような、恐ろしく不安な気持ちに著者がおそわれた時、
病気であるということ
思春期の感じやすい生理状態に起因する出来事
とあるがままとらえた上で、この経験を貴重なものと、大切に思ったのだった。
病気や悩みは人間を質的に変えるきっかけになります。存在の矛盾と虚しさとを悟ることによって、自己の誤謬に気がつくことができます。しかし、日常性のなかにどっぷりと浸り、無反省に欲望の動かすままに人生を送るならば、あまりにも鮮明な感覚的事象に心が奪われて、物事の本質を見ることができなくなってしまいます。本当に世界と自分とは見るがごとくに有るのでしょうか。否、けっしてそうではありません。
自分の肉体、他人の姿、外界の自然様相は、
自分の脳細胞の複雑なはたらきを通してつくりだされた
影像にすぎない、
もとの原像に思いはせることなく、
「ものは見るがごとくに有る」というのは
誤謬にみちていることであり、
「思いなし」「臆見」の中に生きる時、牛を見失っている
と言えるのだと著者は言う。
自分の脳細胞の複雑なはたらきを通してつくりだされた
影像にすぎない、
もとの原像に思いはせることなく、
「ものは見るがごとくに有る」というのは
誤謬にみちていることであり、
「思いなし」「臆見」の中に生きる時、牛を見失っている
と言えるのだと著者は言う。
とは、どういうことだろうか?
(p.8~9)