【メモ】こだわりと向き合おう その(1)

「自分と向き合う知の方法」P.23~P.40

1996年12月号の「RONZA」に掲載された森岡正博さんのエッセイ

「自分を棚上げにした思想は終わった」

にワタシは共感する文がある。

オ ウム真理教事件を、他人事として受け止められなかった著者に、
ワタシはまず共感する。

生きる意味を求め、真理を追求してヨガの修行に邁進して、そのあげくに自分たちの閉鎖世界に閉じこもり、「救済」と称してサリンを撒くに至た幹部信者のことを、傍観者のように眺めることはできなかった。


このエッセイは、こんな出だしで始まる。

オ ウムは私だ。

そう言い切る地点からしか、著者は事件を語れなかった。

多くの評論家は、安全地帯から傍観者の位置で、
教育や社会を批判していた時、
著者は、

自分の生き方が対象にどのように関わっているかを、
常に考えるような思考方法の重要さに気付く。

自分を棚上げにせず、対象に対して、傍観者でなく、当事者(加害者)に置いてみたりする考え方・・・だと思う。

たとえば差別問題。

「差別」について考えるときに、私は、自分が過去に受けてきたであろう差別と、自分が他人にしてきたであろう差別のことを、自分の深い記憶のなかから探り出してきて、それに直面しなくてはならない。

要するに、自分のことがわかってくる状態にならないといけないと言っているのだ。

それを背景にして、再び、問題と向き合う。

ヘタをすれば、この自分と向き合う作業、
自分を語るという作業は、

一歩間違えばうっとうしいナルシシズムに陥る


そうならないためには、
自己表現のあと、再び、テーマに戻ること。

著者は、自分を棚上げにしない思索というものが、オ ウム以降に求められていると語る。

それは、斜陽になって久しい大学という場所を再生させる一縷の望みともなり得るのではないか。


大学のダメさ?の復興のテーマとも、つながってるんだね・・・。

っていうか、
大概、知的だと自称したい人は、上からものを言いたがるし、
その際、安全な立場かどうか気にするもんだ(笑)。
その上で、謙虚の皮を被る人もいるけど、
自分の立場を失ってまで、他人の為に尽くそうなどと思う人は少ないだろう。

せめて、自分のトラウマと格闘しているこの本の著者のように、
知識人と呼ばれる人の脆弱な神経を見せてくれる
というなどの楽しみを私に与えてくれる本を
ものにすることさえできない大学人なんて・・・・・

言いたいこと言ってますが・・・。(;^^ゞ


現在は知らないけど。


森岡さんじたいが、お坊っちゃま感覚で、青い。
高知でどうであれ。

知識人の優位さが、そう見せるんだろうか・・・


森岡さんは、個人的テーマを社会的テーマにまで昇華し、
きちんと自己を掘り下げざるを得ない深刻さがある。


(未完)