知足 老子(道徳経)33章
日々、ブログをいくつもまわれなくて、
一個の記事でじーっと立ち尽くしていることがよくある。
コメントもできず、
次にも行けず
その記事だけで終わっちゃう(苦笑)
こともある。
一個の記事でじーっと立ち尽くしていることがよくある。
コメントもできず、
次にも行けず
その記事だけで終わっちゃう(苦笑)
こともある。
禅の心は、
私に様々なことを教えてくれた。
私に様々なことを教えてくれた。
いつか立てた意思の数々が
今の私になっている。
今の私になっている。
禅も惹かれるけど、
81章から成るこの思想は、うまく説明できない。
極端にいえば、
人それぞれ、自由に解釈して、
自分なりの考え方にして
日々に生かしてゆけばよいのだという
思想である。
極端にいえば、
人それぞれ、自由に解釈して、
自分なりの考え方にして
日々に生かしてゆけばよいのだという
思想である。
「こうせよ」「こうあるべきである」という明確なものはないように思う。
他の著者ともごちゃごちゃになっているかも(笑)
人によって、解釈が「あれれ?」なくらい
ちがうこともある。
人によって、解釈が「あれれ?」なくらい
ちがうこともある。
知足について、個人的にはいろいろ書きたいことはある。
悟りへ至ろうとする人間へ
外ではなく、内へ内へと
外ではなく、内へ内へと
精神的なものに深く回帰させようと
教えているのだと思う。
真の強者、真の智者、真の富とはなにかを
教えているのだと思う。
真の強者、真の智者、真の富とはなにかを
この33章では教えているのであろうと
私は思う。
私は思う。
私はむしろ地に足がついてる人間であれば、
つまり、リアルに
普通の対等な人間関係が当たり前にある日常があれば
それは夫婦、恋人、親子、兄弟、友人、なんでもいいのだけど、
言いたいことが自由に言い合える関係がある人ならば、
つまり、リアルに
普通の対等な人間関係が当たり前にある日常があれば
それは夫婦、恋人、親子、兄弟、友人、なんでもいいのだけど、
言いたいことが自由に言い合える関係がある人ならば、
禅や老子はいいと思うんだけど、
そうでない人には、
あるいは、途中からそいう日常が壊れ出した人などにとっては、
あるいは、途中からそいう日常が壊れ出した人などにとっては、
そういうことを考え出すようになってから、
ヴィジョンというのだろうか、
未来にどういったものを目指すか、
明確なイメージが与えられていない悟り思想は、
人によっては「毒」かもしれない。
未来にどういったものを目指すか、
明確なイメージが与えられていない悟り思想は、
人によっては「毒」かもしれない。
考えすぎだろうか。
(修正しました)