知足 老子(道徳経)33章

日々、ブログをいくつもまわれなくて、
一個の記事でじーっと立ち尽くしていることがよくある。
コメントもできず、
次にも行けず
その記事だけで終わっちゃう(苦笑)
こともある。

38さんのブログで

知足

というテーマで書いてあったのをじーっと見つめていた。

足ることを知るって大切なこと・・・・

外界に振り回されないで、静かな自分を保とう・・・・


禅の心は、
私に様々なことを教えてくれた。

「させていただく」

こうして記事を書かせていただけるのも、
自分の力だけではない。

いつか立てた意思の数々が
今の私になっている。

場を借りて、
書かせていただいている。

これが事実。

だから感謝しかない。
書けるという現実が幸せなことなんである。

知足

とは、心が本当の自分になれた状態かもしれない。

禅も惹かれるけど、

私は

老子

が好きである。
好きだけど、記事になどできるほど読んでない。
禅と同じように惹かれるだけだ。

老子」とは

「道徳経」

のことである。

81章から成るこの思想は、うまく説明できない。
極端にいえば、
人それぞれ、自由に解釈して、
自分なりの考え方にして
日々に生かしてゆけばよいのだという
思想である。

「こうせよ」「こうあるべきである」という明確なものはないように思う。


一切の世俗的な価値観を全否定している

・・・・かのような思想である。
これは、人によって、
解釈はマチマチであろう。

そして、「道徳経」は、

「道」

を教えているのであって、
かといって、
宗教のように、たとえばキリスト教のように
とりなしてくれる師を持たない。

“普遍”


道に目覚めた

“人間”

が、向かい合っている
というのが、この思想のすがたである。

宗教だと真理よりも、個人の信仰の深さが尊ばれるが、
道徳経(老子)では、
道という普遍の前にいきなり
個として立たされる。

これは

福永光司著 老子 朝日選書

をもとにした解釈。

他の著者ともごちゃごちゃになっているかも(笑)
人によって、解釈が「あれれ?」なくらい
ちがうこともある。

それが許されている大雑把さが、
老子の特徴でもあるのかも。

知足という考えは、

貝原益軒の「楽訓」

という書物にあるらしいが、

私は老子の言葉だと実は思っていた。
今日はじめて調べて
貝原益軒の思想だと知って、

ひとつ利口になりやしたぜ!


老子」も知足については触れている。

33章とか3章。

とか12章、63章・・・・

老子が先だと思うけど、
たぶんそれを
日々取り入れやすいように
益軒は書いたのでは。

知足について、個人的にはいろいろ書きたいことはある。

33章を読んで思うこと。

足るを知る

貪るなということだと思う。
今で満足しろということでなく、
世間的な価値にまどわされるなということでもあるだろう、
それだけでもないけど。

悟りへ至ろうとする人間へ
外ではなく、内へ内へと

精神的なものに深く回帰させようと
教えているのだと思う。
真の強者、真の智者、真の富とはなにかを

この33章では教えているのであろうと
私は思う。

3章

あわせて読むといいかも。
この本のですが。
欲望について述べている。
老子は欲望は否定していないが、
無欲が望ましいと言ってる・・・・みたいだなぁ。

足を知る・・・・・

ここで書ききれないですが、
個人的には,
今日のテーマを味わう作業は堪能しました♪

でもね、

他者のことを、老子ではどう見るか?
これが疑問なんすけどね。

また、宗教ではないため、
(「道教」は老子を宗教化しようとしたものらしいですが)
救いがどこにあるかが不明(苦笑)だし、
宗教っぽくない点は「禅」と似てるようですが、

だとすれば、
老子も禅も、

極端な方向に行く

こともありえるんですよね。

いわゆる、

「魔道」に落ちる

というやつです。

私はむしろ地に足がついてる人間であれば、
つまり、リアルに
普通の対等な人間関係が当たり前にある日常があれば
それは夫婦、恋人、親子、兄弟、友人、なんでもいいのだけど、
言いたいことが自由に言い合える関係がある人ならば、

禅や老子はいいと思うんだけど、

そうでない人には、
あるいは、途中からそいう日常が壊れ出した人などにとっては、

もしかしたら危険な思想かもしれない

と感じたことがある。

いわゆる

精神的な病

の引き金になりかねないのではないだろうか?
と突拍子もないことを感じたことがあるのだ。

思想に取り組む動機が

「現実逃避」

であったら・・・・

そういうことを考え出すようになってから、

老子を脇に置いて、まず

フロイト関連

などをゆっくりだけど、
読み出すようになった。

ヴィジョンというのだろうか、
未来にどういったものを目指すか、
明確なイメージが与えられていない悟り思想は、
人によっては「毒」かもしれない。

考えすぎだろうか。


(修正しました)