宮沢賢治は「献身病(関係嗜癖の共依存者?)」という病気持ちだった!? 八幡洋「賢治の心理学 献身という病理」①

昔、ブログネタに100円本について書いていたが、
最近読んでいる本が大変面白いので、100円本シリーズ復活です。

というのも、この本

賢治の心理学 献身という病理  (彩流社 1996年刊)

の著者が最近TVに出ているのを見たからである。

八幡洋(やはたよう)


ある小論文の先生もそういえば、TVに出て有名になってからは、
あまり教えなくなったような・・・・
赤ペンだらけの添削された原稿用紙が懐かしいっす☆

ワタシはわりと、意外な存在に目をつけるのははやいと思う。
ワンストラップの靴が流行る前、飽きてしまっていたり、
世の中と一致しないとムナシイ時もあったなぁ・・・・・

「この人はそのうち世の中に出てきまっせ~!」「このグッズいいですよん♪」
というような事を、こういう場所に書くことは、それほどいいことだとは
最近思わなくなった。

こういう場所に書くということは、それを共有したいからだと
思っている人が多いように思うのも理由の一つだけれども
特に共有してもらわなくてもよい。

人それぞれ、価値観も考え方もちがうからである。

でも本当に「うんうん♪」というのは歓迎だし、
これからも書くはりにはなるよ。

だけど、わかってもらわなくても、書くと思うが(爆)

誰でもそうであるように、

私はときどき買い物をする。
「それいいね!」といわれるだろうなというものを買っているように思う。
誰でもそうであるように。

だけど、小物を選ぶことが多い。
雑誌やショップ店頭のセットアップのような、上から下までぜん身買っていたら身がもたないからね。
(貧乏は工夫の母です♪)

んで~

「賢治の心理学 献身という病理」という本に戻るが
私は宮沢賢治も嫌いだけど、これは食わず嫌いである。
あるけれども、宮沢賢治を好む人々が好きになれない。

もっと並べると、水木しげる泉鏡花寺山修司、などなどを好む人々が好きになれない。

なんでやろ~???

とう疑問すら湧いて来ないほど、私にとっては自然なことなんであるよ。

世の中は、こういうワタシを「え! どうして?」「理解できない」
と言い、変わり者扱いさえする。

私はいたって普通のマジメな?人間なのだけど(^m^;)
宮沢賢治は常に私が他人を判断する際に、踏み絵のような役割を果たしていた。

まぁ、勝手な判断ですが・・・・。


なぜ嫌いなのか、自己に深く問うた事はないが、
心理学的に言えば類似している思考法ゆえ、
同類嫌悪なのかもしれないという見方もできるだろうけど、

ワタシは彼のようには生きようとも思わないし、生きれない。
厳しい自己節制と、人生を他者のために捧げ尽くしたような生き方は
ある意味で、嫌いであっても、賞賛に値するとは思うよ、ウン!

だけど、彼のように生きようとは思わない。
ある種の歪んだ想いをもって、「賞賛」しているのである。
「おまえもよくやるよなあ。なあ兄弟☆

ってな具合かもしれんです・・・

賢治でいやだなーと思うところは、わざとらしズムなところかなあ?
(同類嫌悪かも)

不完全なナルシズムを裏打ちしたヒロイズムなところもイヤだ。


ナルシズムを客観化せずに突破してゆくと、生き急ぐことになるのかな?
・・・と、そういう思いすら浮かぶ彼の生き方ではある。
やっぱ好きになれんわ(苦笑)

あと、賢治を好む女たちに一貫して見出せる自覚なき自己中心性に嫌悪した経験は幾度もあったことも、嫌いな理由かなあ。

いつか、そのことを書きたいと思っていたけれど、さすがに、
偏屈扱いされることがうっとうしくて、避けてきたネタかもしれない。

だが、八幡洋さんが

どどーん☆

とTVに出てきてくれて、
こうした本もどんどん読まれてゆくだろうし、
もういいかげん

宮沢賢治なんて大嫌いなんだよ!」

と自由に言える時代が来てもいいと思えるのだが。

だが、八幡さんは賢治嫌いな人ではない。
むしろ彼のことは「好きだ」とご本人は言っているのである。

(続く)

注:修正するかもしれません。