宮沢賢治は献身という病気持ちだった!? 八幡洋「賢治の心理学 献身という病理」③

八幡さんによれば、「無力な理想主義者」としてのイメージは、真実ではなく、
彼は「勢力的なビジネスマン」であり、「卓抜なアイデアマン」であり、「実務的で有能なセールスマン」「イベント・クリエーター」であった。

今の時代にも通用するような、自己コントロールによる、合理主義と無駄の節約。
それは目的追及へとすべてを向かわせるものであった。
残念ながら、彼の虚弱体質では、大きすぎる理想は負荷を与えすぎていたかもしれないが。

エスペラント語、音楽、友人、
そしてひたすら「自分を与え続ける」という行為。

だが、である。

彼が与えるやり方には、ほとんど押しつけとしかいいようのない一面があったこと。
自分がいいと思ったものは、与えた相手もいいと思って当然だと思っていたのだろうか。
やってあげた感をちらつかせるわけではないし、与えたのは花壇とか、
饅頭だとか、風景の共有だから、相手が嫌がるわけではないだろうが。

だが、他人に与え尽くすことはできても、賢治は受け取ることを拒んだ。
それは徹底していた。

私は与えても受け取れない人というのは、子供時代になにかあったんだろうかと思ってしまうが、
実際、父親との間でなんんらかの歪みは生じたようである。

他人に甘えることができない。

だが、自分は他人にしてあげたい。与えたい、尽くしたい。
死ぬ直前までそうだった賢治。

自分の不調は外に出さない──確かに大切かも。
だが、風邪をひいた人はできるだけ休んでいてほしいし、外出しないでほしい。
風邪がうつるからだ。それが、昨今の考え方だろう。
まあ、それでも頑張らなきゃいけない人がほとんどですが。

さて。

こんな堅苦しい人物である賢治は、誰にも心は開いていなさそうである。

賢治の弟は

「兄は表面陽気に見えたところもありましたが、ほんとうは小さい時から何ともいえないほど悲しいものを持っていたと思います。…兄は食事の時などに、自分の家で家族たちといっしょに物を食べるのに、いつも恥ずかしがって恐縮しながら食べたもので…」


「グスコンブドリの伝記」のブドリの描写から、弟の話から
賢治の心情を理解するなら

「あるがままの自分は決して人から愛されない」「他者にとって役立つことによってしか受け入れられない」

ということ。


八幡さんは

私たちは、賢治の「献身」や「自己犠牲」は、「愛されない」という痛ましい自己規定の上に形成されたものであることをみた(p38)


第1章は上記のような結論となり、
それをより詳しく理解するために、1985年アメリカでベストセラーとなったロビン・ノーウッドの

「愛しすぎる女たち」

を用いて、賢治の「献身」的な生き方を著者は分析している

第2章 関係嗜癖

へと導く。


愛しすぎる女は、安定した人格の異性に魅力を感じず、
克服すべき困難のある男性に献身的に尽くそうとする。
彼女らは、一人の異性に執着するが、

賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
と、全人類のために献身したいと願っている点はちがうが

ノーウッドの本のなかに、異性を限定しない賢治のような女性も含まれていることから、
著者は、賢治の生き方をこの精神的傾向に含まれることができるという。

うーん、、、、、


宮沢賢治が、病の人だったとは。

この「嗜癖」という概念は、英語では、アディクション(中毒、耽溺、常用癖)かな? 
そういうタイトルの本があった。

アルコール、タバコ、ドラッグ、セックス、暴力、コーヒーや食べ物、たとえばチョコレートもだ。そして、嗜癖という概念は、人間関係にまで使うようだ。
その人間関係施癖の典型が「共依存」と呼ばれる人間関係である・・・らしい。

うーん、なかなか業につながるテーマだなと思える、、、、


(続く・・・かな? タブン)