アートを学ぶ宣言?革命? 「現代アート入門」平凡社刊

イメージ 1

このブログの初めから続いている、古本ネタ。
100円ではないが、本ネタは久々である。

「アートを学びたいな~

ならばだな、まずはアーティストのことを学ばなきゃ
という訳で、昨日この古本を買ったワケでぃ

ロイ・リキテンシュタインの表紙。
既存のアメコミ少女を、誇張したアート。

現代アート入門
小林康夫・建畠哲編
1998平凡社

最近のガールズ・モードや、日本オタク文化の世界への影響、
日本人のアニメ風のアーティストのもてはやされ方……

ナニこれ
とワタシは思っていた。

だけど、ワタシは画廊のページを編集していた頃、荒川修作は好きだった。

当時はわからなかったけど、今の時代にしても、コンテンポラリーなアートは、

仮死状態のシュルレアリズムが不完全燃焼で終わったので、
それが完成を待っている経過なのではないかとか考えてみたりした。

ずっと、解答が欲しかった。

この本は、コンテンポラリー・アートについて述べているらしいが、アートの解説書ではないようだ。

各作品を4つに分類し、優れた作品には必ず理屈があると教えたそうな生真面目な本のようだ。


1.感覚の極限
2.世界認識の装置
3.人間存在の根底を問う
4.社会との切り結び

リキテンシュタインのこの本の表紙「ヘア・リボンの少女」は4章に収録。

アートに最も近い場に身を置く学芸員や評論家、研究者諸氏に、
それぞれが最も関心をもっている一点の作品の前に立ってもらい語る形。

いい本だワァ


さて。

アンドレ・ブルトンの1924年、シュール・リアリズム宣言は、

精神の解放が過剰に向かおうとする時代であり、また引き裂こうとする時代。


一般的には、シュルレアレズムの「シュール」は、

巷に氾濫する言葉としては、曖昧に自由に
様々な意味に使われていると思うワタシだ。


芸術新潮の去年2月号のシュルレアレズム特集で、

南雄介、国立新美術館学芸課長はこう語るのだ。

シュルレアリズム研究者巌谷國士氏は、
「シュル」とは「強度の」とか「過剰な」というフランス語の意味もある。

ゆえに超現実とは、・強度の現実
・上位の現実
と受け取った方が適切だと言っていると。

《普通に現実だと考えられている現実、社会の複雑な機構の中で断片化され、
半ば機械的に惰性的に過ぎてゆく日常の現実に対し、
生の全体性、真の生をよみがえらするものとしての
「強度の現実」「上位の現実」を希求する、それこそが超現実主義だというわけです》


最近のアートに、私はまさに、それを求めていた。

だけど、はっきり言って、魅力的なものが、一部を除き、あまり見つけられなかった。

むしろ、優れた建築家の模索する生活動線への工夫や、

住む人の三次元空間の幅やボリュームのサジ加減は、ミリ単位の自問の積み重ねであり、

快適さへの解答は主観的なようで、
実は解答は多くないような気がしているため、

アートより、建築家のワークにワクワクする事が多いのは事実なのだ。



今気付いたが、この本の、リキテンシュタインの解説、南雄介氏だった
つながってるね~

芸術新潮はともかく、「現代アート入門」はまだ読んでないのだよん

勉強のはじめの偶然にしては、幸先がいいネッ