『悟り』をめぐるテキトーな雑感(5)イエスから宇宙飛行士まで……この世で生きる深い判断力が得られてこそ『悟り』と言えるのではないのか?

始まりは魅惑的で、理性的で、すべてにおいて正しく、霊能力もある悟ったはずの人間が

やがては、お金に目が眩んだり、思い上がって自己尊大になったり
性に開放的な理論に至ったり

己を見失ってゆく。まともではなくなってゆく。
殺人まで犯す教祖もいた。

小さな自分という内部世界に埋没するようになった結果である。

一般的理解だと、霊的に高められた自我は、高次元的であればあるほど

この世における存在の歪みやエゴから解放されていなければならないはずである。

心はすぐに怒りや悔しさで感情が膨れ上がるし
悲しんだり、感動したり、悔いたり…目まぐるしく動き回る。

この心に振り回されず、本来の自己を通し、永遠の魂を理解出来た時、『悟り』は完成らしい。
そして、もうこの世に生まれなくてもかよいのだとか。


結局、『悟り』というのは、かなり乱暴な言葉で言えば

魂の課題を完璧にマスターして
感情のコントロールや、善悪を見定める尺度や判断力が深まることであると思うが。

私流に言えばだが。

(6)に続く