「他人のために尽くしたい」という偽善の思いと、必然からくる使命はちがう スピ(6)

あるところまでゆくと、人間は流され、謙虚さや、感動する心まで見失ってゆくような
気がするよ。
いつしか、苦悩していた過去の自分はないものとされ、最初から、霊的な能力を持った
特別な人間であるという思い込みを選ぶ。
信じた神や天使のイメージは、「信じたい」という思いに支えられているように思う。
(あくまで印象である)
人を救いたいという目的に目覚めることは素晴らしいんだけどね。

ユタになれと神に命じられた人も、そうした思いになった時、体調がよくなったという話がある。
そういった沖縄独特の土壌での因習内ならば、それはどういったことか、フォローも整って
いるから安心だけど、そういったバックアップもなく、霊的使命に目覚めるというのは危険だと思う。

こういった使命感にとりつかれた人間が成長する場合、謙虚さと比例するのが、最も
望ましいのではないか。
いつも前向きで、幸福な高揚感だけが是とされ、天使の守りやメッセージがなければ、
理解に困る世界観とは、なんなのか?

天使や神がやってくるのは、メッセージつまり、助言や生き方のヒントを与えに来てくれる
だけではないだろうか。
我々は独りではないということを、伝えにきてくれているというにすぎないのではないか?
我々に、生きる勇気を与えにくるのでなければ、なんなのか。
(「欲望や願望を満たすお手伝いをします」などという天使がいるとしたら、それは悪霊に
ちがいない)

人間の弱さ、危うさと結びつこうとする悪いやつらが、人間の心の働きについて無知な人々を
食い物にしてゆくのだが、それはまた別の話となる。