陰陽五行説について 祥瑞災異思想  (メモとして)

天智天皇は、遷都のために、陰陽五行節によってよい方向を選んだが、
形から外国の流行を取り入れすべてを新しくした。
陰陽五行節には、あまり重きをおかなかった。

弟、天武天皇は陰陽五行説に詳しかったし、その研究所として、「陰陽寮
を宮廷に置いたほどだったけれど。

僧侶はこの陰陽五行説を学ぶ事は禁じられた。

陰陽師には毎日天体観測をさせ、異変の予兆を得させ、予兆があれば、
天皇家だけに知らされた。
天皇家が、自分たちの都合のために陰陽五行説を独占したのだ。


陰陽五行説には、「祥瑞災異思想」という発想があり、
政治がよいとおめでたい知らせがあるとし、
政治が悪いと災害や不吉な現象が起きるとする。

これを権力者でない側が用いると、権力者がわにまずいしるしが表れた時、
批判を受け、人心をまとめられないから、国を治める側には不都合なのだろう。

武光誠氏の著作を参考にしました。)

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結局、権力を自分の手中に収めるために、
こういったものを利用したとしか思えないのだが。
歴史を動かしたい人に、謙虚さはないな。

仏教とは別なはずの陰陽師なのに、道鏡のころには、混沌としているようだが。
いまいちわからないなあ。


(暑い~~)


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2019/7/25(木)追記

ずっと、追記したかったのだが……
かなり、遅れてしまった☆
(メモ程度だが、ちょこちょこ読まれている人もおられるので。
陰陽道は、結構、本が多く出ています)

ホツマツタヱ』にも出てくる『夏』王朝では、陰陽道

連山

と称し、
ついで興った『殷』(商)王朝では

帰蔵

と呼んでいた。
やがて紀元前1100年頃に興った『周』王朝は、
連山や帰蔵をさらに体系化して

と名付け、『易経』という書物をつくった。

(参考:大阪書籍1987年刊『日本陰陽道史話』村山修一著)