人生の黄昏 記憶への郷愁 「日の名残り」カズオ・イシグロ作 中央公論社 1990年刊 後編

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つづきである。

人生には挫折がつきものであり、挫折からはいあがれず苦しんでいる人は多いのではないだろうか。

少し前、プロレタリア小説が話題になった。
それとは違うが、

映画「カイジ

は面白かった。

「クズのみなさんうんたら」というキャッチ・コピーがひどく大胆で、ブシツケで

「なんとかならんのかい☆(^o^;)」

と思ったが、
あれはギリギリの崖っぷち表現ではなかったろうか。

世間一般の人々の尊厳意識に潜む欺瞞を
批判してるのかもという意味内においてだが。

格差社会なんてないほうがいいのだ。

しかし、ほどよい金持ちがいてくれないと、芸術も文化も回っていかないわけで。
なかなかむずかしいのだ。


いろんな次元の挫折がある。


挫折から這いあがるというのは物語になりやすい設定だが、

日の名残り

は自分が挫折していることさえ見ようとしなかったカタブツの話である。
いや、彼は気づいていたかもしれないが。
あえて見ようとしなかったのかもしれない。

この本、読み返してみると、いろいろ再確認できるかもしれない。


聡明な女性からの率直なアプローチに、主人公は
惹かれていながら、応えることができなかった。
女性は失意のうちに去った。

主人公は、自分の気持ちを必死に押し隠して
反応しないようにして頑固に仮面を演じ続けたわけだが・・・・

アンソニー・ホプキンスはみごとに演じていた。


そういう自分の守り続けた仮面の人生を、
自分自身で後悔するかもしれないと覚悟の上で
主人公は旅に出たのかもしれない。

そして、どうなったか。


その経過は、いくらここで語っても伝わらない部分である。
そこが見どころであり、この小説の味わいどころでもあるからだろう。

少々退屈しながら読んでゆくと、

なんと!

しみじみした感動が湧いてきて、小説の面白さをあらためて知ったような気がしたものだ。


日常出会う悩みや苦悩──誰にでも襲いかかる人生の危機。
一生、悩みや苦しみと無縁の人がいるだろうか。

そんな苦悩や悩みの中で、

「後悔」

の思いに苦悩するという人も多いと思う。

感情のままに行動してしまったり
ふとしたいたずら心でしたことが大事に至ったり
魔がさしたような行動だったり
配慮や言葉が足りなかったり、多すぎたり
傷ついたから、傷つけたり
自己保身からつい嘘をついてしまったり
エトセトラ・・・・・・・エトセトラ・・・・

本当にいろんな「後悔」の原因やきっかけはたくさんある。

すべては時間が解決してくれる──

仕事に誇りを持っていた主人公も、そう思っていたかもしれない。

だが、

審判の時は必ずやってくる。

とも人間は思う。

人生の機微を知っている人ならば
確実にこれで正しいという判断をして
決断を下す人間など、たぶん、いないだろう。

教養深い人間になりたい。

いつもそう思う。

自分の意識が知らぬ間に毒され、流されてゆく。
そんな空しさを、いつも人間は味わっていないか。

大切なことは、人間を深く理解することだとワタシは思う。

主人公の執事は、後悔の人生を確認して、様々な思いを抱く。

そして──人間の温かさを結び付けるものが
あれほど「不合理だ」と思っていたジョークではないかと思い至る。

桟橋からの眺めの場面における心情描写はとても美しいと思う。

まるで音楽が聴こえてきそうだ。

新しいアメリカ人のご主人様が好むジョークを
立派に言ってみせて、びっくりさせたいと彼は思う。

──幸福というものはこういうものではないだろうか。


過去にこういった小説と出会えていたことは、なんとも幸運なことだった。
小説というものがこういうものであるべきだとは思わない。

こういうものは、

「本来」

ではあるが

「根源」

ではないことも多い。

第一、ワタシの書くものは、崖っぷちエロ路線をベースにしているわけだから(笑)
いや、エロが根源的なものであるというわけではないのだけれども。
(汗)


カズオ・イシグロにとって、古き良き時代の英国を描いたことで
自分のアイデンティティを得た・・・・ということらしい。
この前の二作では、五歳までいた日本という国の記憶を失ってゆく自分に祖国を刻印できた・・・・ということらしい。

らしいらしいらしい、で申し訳ない・・・・・・・だってこの本しか読んでないんだもんねェ・・・・(^^;ゞ

この小説「日の名残り」は1993年に映画化された。監督はジェイムズ・アイヴォリー。出演はアンソニー・ホプキンスエマ・トンプソン他。





(終)




(画像は記事の内容と関係ありません。横浜開港記念会館(ジャックの塔)